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【沖縄戦:1945年3月7日】「沖縄増強の問題は現地軍にて解決すべし」─大本営、第32軍の兵力増強要請を拒否 「見放された島」としての沖縄

「沖縄増強の問題は現地軍にて解決すべし」

 第32軍による北・中飛行場の防衛放棄の方針をうけ、軍中央、第32軍の上級軍である第10方面軍、また航空部隊などは、第32軍に北・中飛行場方面の防衛強化を要望した。第32軍は、現兵力では要望に応じかねるとし、3月5日に兵力増強を要請する。これをうけて第10方面軍は、大本営に1兵団および火砲類の増強を要請した。また、この日、大本営海軍部富岡定俊第1部長も同陸軍部宮崎周一第1部長を訪れ、沖縄への兵力配備の変更を要請した。
 これをうけ宮崎第1部長は、第10方面軍に対し、参謀総長の指示というかたちで「沖縄増強の問題は現地軍にて解決すべし 台湾から混成連隊一を沖縄に転用すべき」との趣旨を電報した。宮崎第1部長は、富岡第1部長にも同様の処置を伝えた。軍中央として沖縄からの兵力増強要請を明確に拒否したことになる。
 大本営の指導電は、3月10日に第10方面軍へ到着する。方面軍司令部では軍中央の判断に反発し、再度強硬な増強要請も検討されたが、無駄であろうとして独立混成第32連隊を沖縄へ派遣することとした。しかし戦況の悪化により3月25日、独立混成第32連隊の沖縄派遣も中止となった。
 戦史叢書には、第10方面軍井田正孝作戦主任参謀の10日の日誌の一節として、次の文が紹介されている。

 球ニ対スル指導力ハ常ニ薄弱ニシテ故林参謀健在ナレバ何トカ打開ノ策モアラント遺憾ナリ 然レドモ第九師団ノ転用ノ如キ全ク中央トシテハ失敗ナルベク方面トシテモソノ責任ノ一半ハ有ス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 「球」とは、第32軍の兵団文字符のことである。故林参謀とは、前年7月に航空事故死した井田参謀と陸士の同期の第32軍林忠彦参謀のことであろう。方面軍の第32軍に対する指導力が薄弱というのは、第32軍の要請を軍中央に承諾させられない方面軍の意見の弱さをいうのか、第32軍の兵力増強要請を押さえつけて飛行場防衛を実施させられない方面軍の第32軍への指導力の弱さをいうのか意味が取りづらいが、いずれにせよ第9師団抽出を大きな契機として、現地軍、方面軍、軍中央と大きな齟齬が生じている様子が見て取れる。

「見放された島」

 宮崎第1部長は1944年1月には第32軍の兵力増強のための第84師団の沖縄派遣を中止したり、沖縄へ米軍が上陸した直後の1945年4月2日には沖縄戦の見通しについて「結局敵に占領せられ本土来寇は必然である」との認識を示すなど、第32軍あるいは沖縄戦に関して冷淡ともいえるような態度が伺える。
 第32軍八原高級参謀は、このころの沖縄を「見放された島」と表現しているが、現地軍としてそう感じるのも理解できよう。

米軍情報部「マジック」より

 米軍は、日本軍の暗号を恒常的に傍受・解読し、軍の行動や状況を常に把握していた。また外交電報なども傍受・解読し、そうした機密情報をまとめて軍幹部が回覧していた。真珠湾攻撃以降は、傍受・解読した情報をただ回覧するのではなく、米軍として分析評価などが加味されるようになった。こうした総合的な暗号解読文書、あるいはそのような情報類を「マジック」と呼ぶ。
 この日の米「マジック」には、米海軍情報として、前日6日の日本軍の電報の傍受・解析に基づき、日本軍はまだ第58機動部隊(沖縄攻略を担当する米機動部隊)の位置を把握していないが、米軍の空襲は切迫しているに違いないと見ており、警戒警報も発令されているなどと非常に詳細な情報を配信している。逆をいえば、これほどまでに日本軍の情報は米側に捕捉されていたといえる。

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)

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1945年9月2日、戦艦「ミズーリ」で降伏調印式に臨む日本側代表団 2列目左端が宮崎第1部長 宮崎第1部長の右のシルクハットの人物の左(1列目の軍服の人物に隠れている)が富岡定俊第1部長 沖縄戦の正式な降伏調印式は同年9月7日であり、宮崎が降伏調印式に列席してなお沖縄戦は続いていた:ウィキペディア「宮崎周一」