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【沖縄戦:1945年2月10日】沖縄県、疎開について緊急市町村会議を開催 「軍に自信あり」─第32軍参謀長、首里市指導層に向けて檄 脱走兵の問題について

緊急市町村会議と住民の北部疎開

 沖縄県は、第32軍による要請をうけ、県立2中の焼け残った校舎において住民の北部疎開に関する緊急市町村会議を開催した。なお、当時、住民の退避・疎開は、行政上の表現として「人口調整」とも呼称された。
 県は、この会議において、中南部からの疎開者の受け入れ地として、本部町を除く国頭村・東村・大宜味村・今帰仁村・羽地村・名護町・久志村・金武村・恩納村の9町村に10万人を移動する計画を表明した。

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疎開者受け入れ町村と疎開市町村およびその人数:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦より

 以降、「北部疎開」(やんばる疎開)といわれる住民の疎開と、これに関する県の業務が本格化していく。 
 政府は、先月15日、県に対し軍と協力して住民の北部疎開を実施するよう求める「沖縄県防衛強化実施要綱」を閣議決定し、北部疎開に関する経費を国庫支出とした。経費は住民約19万人の疎開を想定し、総額約3950万円が計上された。 
 このように記すと、政府は住民の北部疎開に積極的であったように聞こえるが、あくまで第32軍が策定した「南西諸島警備要領」など軍の構想に従ったものである。「南西諸島警備要領」の概要は、

1、戦闘能力、作業力のある者は、戦闘準備および戦闘に参加する。
2、60才以上の老人、国民学校以下の児童、これを世話する女子は昭和20年2月末までに戦闘を予期しない本島北部に疎開する。
3、各部隊は自動車、舟艇で住民の疎開を援助する。
4、その他の住民の中で直接戦闘に参加しない者は、戦闘作戦準備作業、農耕、その他の生業に従事し、敵が上陸する直前、速やかに本島北部に疎開する。
5、県知事は本島北部に疎開する住民のために食糧を集積、居住設備を設ける。

(『那覇市議会史』第1巻 通史編)

というものであり、あくまで住民は、軍の作戦に最大限協力することが求められており、足手まといの者を疎開させるというのが軍官の方針であったといえる。
 他方、軍と協力して住民の北部疎開を進めた島田知事の前任者である泉知事は、こうした住民の北部疎開について消極的であった。その理由は、沖縄北部は山岳地帯であるため耕作地も狭く、中南部の住民が大挙して北部に疎開すると、収容能力の問題や食糧確保をめぐる混乱が発生するという理由であった。

第32軍参謀長の講演

 この日、第32軍長勇参謀長は、首里市の要請により同市の主だったものを前に講演し、以下のように翌11日の沖縄新報に掲載された。

県民に檄す 
 必勝の信念は神風を招く、現地軍参謀長講演
  残さず海の藻屑
   軍は万全“肚を据えよ”

 現地軍参謀長は10日午前10時首里市当局の懇請によつて同市指導階層に対し講演を行つたがその概要次の通りで今や驕敵を邀え文字通り大決戦場たらんとする我が皇土沖縄の護持に全県民滅私奮起、必勝の信念をもつて総突撃に驀進するよう強調した。
不安を払拭せよ軍に自信あり 欧州では盟邦独逸がその首都伯林を正に衝かれんとしてゐる情勢にあり大東亜戦争また物量を恃みとする英米の攻勢によつて遂にわが本土近くまで敵を侵入せしめるに至つた。茲に於て国民の多くは日本は負けるのではないかと不安を持つてゐるやうである。今にしてこの考へを頭から払拭されねば勝つべき戦争も自ら敗負を招くことになる。
軍に自信あり 勿論軍は絶対に勝つ確乎たる信念を持つて敵の至るを待ちその自信満々としてゐる。従つて軍は負け戦はせぬ。
  [略]
自分もやるの決意持て 既に勝利の神風は吹きまくつてゐる。即ちレイテ戦以来の陸海空特攻隊の活躍であり、近くはほんの小粒位で1トン爆弾以上の威力をもつ強烈なる新火薬の出現である。皇土沖縄に於て本格的な戦争が展開せば軍と県民は一身十殺し皇国維持の大任を完ふせねばならぬが軍は一般県民にその尊い血を出来るだけ流させないよう万全を期してはゐる。しかし乍ら県民各位は進んで奮闘してこの郷土を護り抜くことこそ日本国民たるの征くべき道かと思ふ。而して神風は己を殺し進んで国家を護ろうといふところに吹くものであることを肝銘じ軍に協力するものでなく「自分もやる─」と言ふ考へでやつて貰ひたい。戦争に邪魔にならぬよう老幼者は疎開して協力することである。
  [略]

(『那覇市史』資料編 第2巻中の2)

 住民の北部疎開が本格化しはじめたこのころであったが、「軍に自信あり」「軍は絶対に勝つ」「勝利の神風は吹きまくつてゐる」といった軍参謀長の言葉は、むしろ住民の疎開の足を鈍らせる結果となった。それとともに、「戦争に邪魔にならぬよう老幼者は疎開して協力することである」といった言葉は、軍において「疎開」とはどういうものであったかを明瞭に示している。

逃亡犯への考察と予防

 第32軍司令部の法務部はこの日、逃亡兵(脱走兵)の問題について、逃亡事案の発生への考察とその対策や予防について検討し書類をまとめている。

逃亡犯ニ関スル若干ノ考察
 昭和十九年
[ママ、二十年の誤りか]二月十日
  球第一六一六部隊法務部
  石第三五九四部隊 写

一、はしがき
 近時逃亡犯ノ極メテ多発シアルハ 軍ノ駐屯地域ノ地理的特性ニ鑑ミ解スル能ハズ 他ニ其ノ類ヲ観ザルトコロナリ 然レ共多発シアルハ因由ノ存スルトコロアルニ出ズ 以下軍法会議ニ於テ取扱ヒタル事件ニ付若干ノ考察ヲ為シ逃亡犯予防ノ参考ニ供ス
二、逃亡犯ノ原因
 主観原因ハ紀律嫌忌ニ出ツルモノ極メテ多ク身体虚弱ヲ苦慮シタルモノ飲酒ニ起因スルモノ之ニ亜グ 客観的原因ハ私的制裁ニ因ルモノ次テ要注意兵取扱不的確ニ起因ス 其ノ原因ノ詳細ハ附表其ノ一ノ如シ 是レニ由リ観レバ犯罪ノ予防ハ精神要素ノ函養、的確ナル飲酒対策ノ樹立、私的制裁ノ絶滅ヲ計ルヲ以テ先決トス 尚飲酒ニ起因スル犯罪表 私的制裁ニ起因スル犯罪表 附表其ノ二 其ノ三ノ如シ
三、逃亡者ノ役種、官等級
  [略]
四、逃走ノ態様
  [略]
五、逃走期間
  [略]
六、潜伏、徘徊箇所
  [略]
七、沖縄県出身現地入営兵ノ逃亡
 本県出身現地入営初年兵ニシテ「オ祭ダカラ一寸家ヘ帰ツテ来ル」「腹ガヘツタカラ家ヘ帰ッテ飯ヲ食ツテ来ル」等軍紀ヲ解セズ軽易ナ考へヨリ脱柵シ其ノ儘帰隊セザルモノアリ 又些細ノコトニ「オ前ハ銃殺ダ」ト申向ケラレ其レヲ真ニ信ジテ之ヲ虞レテ逃走スルモノアリ又所謂逃亡癖アリテ一度逃走シ軽易ナル取扱ヲ受ケタルトキハ数回ニ亘リ逃走ス 而シテ逃走後ノ立寄先ハ概ネ実家 情婦先 親戚 友人宅ナリ 現戦局及情勢ヲ平易ニ解説シ軍隊ノ紀律ノ何タルカヲ教育シ又的確平易ニ刑罰教育ヲ実施シ刑罰ト懲罰ノ異同ヲ明確ナラシメ置クヲ要ス 而シテ一度逃亡シ逃亡罪成立スルニ至ラス 懲罰処分ニ附スルトキハ厳重ナルヲ要スベシト思料ス「営倉ニ居ル方ガ楽ダ」ト称スル者スラアルヲ以テナリ
八、予防対策
  [略]
九、結言
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 長文であるので部分的に見出しのみを掲げて本文を省略したが、第32軍が兵士の脱走、脱柵という逃亡兵の問題について頭を悩ませていたことが窺える。また、その理由として複数の要因を見出しているが、やはり私的制裁(上官や古参兵による暴力、リンチ)が大きな要因であることを読み取れるし、軍自身もそれを把握していることがわかる。
 現地入営者、すなわち沖縄で兵隊にとられた沖縄県民については、他県から沖縄にきた兵士よりも土地勘があったり家族や知り合いが付近にいるなど脱走が容易な条件が整っていることもあり、脱走事案が一定数あったのだろう。沖縄戦の地上戦がはじまると、防衛隊も含め兵士の脱走や投降も頻発するが、いわゆる皇民化教育や軍の玉砕思想が必ずしも徹底せず、生きようとする県民の強い意志を感じることもできる。
 それとともに、ことさら現地入営した沖縄県民の脱走に注意しているところには、「軍事思想ハ不十分」「皇室国体に関する観念徹底しあらす」と沖縄県民を蔑み、また疑いの目で見てきた明治以降の軍の沖縄県民観が見え隠れしている。

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逃亡犯ニ関スル若干ノ考察の附表1から3:『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第5号(琉球新報2005年2月10日)

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