緊急市町村会議と住民の北部疎開
沖縄県は、第32軍による要請をうけ、県立2中の焼け残った校舎において住民の北部疎開に関する緊急市町村会議を開催した。なお、当時、住民の退避・疎開は、行政上の表現として「人口調整」とも呼称された。
県は、この会議において、中南部からの疎開者の受け入れ地として、本部町を除く国頭村・東村・大宜味村・今帰仁村・羽地村・名護町・久志村・金武村・恩納村の9町村に10万人を移動する計画を表明した。
以降、「北部疎開」(やんばる疎開)といわれる住民の疎開と、これに関する県の業務が本格化していく。
政府は、先月15日、県に対し軍と協力して住民の北部疎開を実施するよう求める「沖縄県防衛強化実施要綱」を閣議決定し、北部疎開に関する経費を国庫支出とした。経費は住民約19万人の疎開を想定し、総額約3950万円が計上された。
このように記すと、政府は住民の北部疎開に積極的であったように聞こえるが、あくまで第32軍が策定した「南西諸島警備要領」など軍の構想に従ったものである。「南西諸島警備要領」の概要は、
というものであり、あくまで住民は、軍の作戦に最大限協力することが求められており、足手まといの者を疎開させるというのが軍官の方針であったといえる。
他方、軍と協力して住民の北部疎開を進めた島田知事の前任者である泉知事は、こうした住民の北部疎開について消極的であった。その理由は、沖縄北部は山岳地帯であるため耕作地も狭く、中南部の住民が大挙して北部に疎開すると、収容能力の問題や食糧確保をめぐる混乱が発生するという理由であった。
第32軍参謀長の講演
この日、第32軍長勇参謀長は、首里市の要請により同市の主だったものを前に講演し、以下のように翌11日の沖縄新報に掲載された。
住民の北部疎開が本格化しはじめたこのころであったが、「軍に自信あり」「軍は絶対に勝つ」「勝利の神風は吹きまくつてゐる」といった軍参謀長の言葉は、むしろ住民の疎開の足を鈍らせる結果となった。それとともに、「戦争に邪魔にならぬよう老幼者は疎開して協力することである」といった言葉は、軍において「疎開」とはどういうものであったかを明瞭に示している。
逃亡犯への考察と予防
第32軍司令部の法務部はこの日、逃亡兵(脱走兵)の問題について、逃亡事案の発生への考察とその対策や予防について検討し書類をまとめている。
長文であるので部分的に見出しのみを掲げて本文を省略したが、第32軍が兵士の脱走、脱柵という逃亡兵の問題について頭を悩ませていたことが窺える。また、その理由として複数の要因を見出しているが、やはり私的制裁(上官や古参兵による暴力、リンチ)が大きな要因であることを読み取れるし、軍自身もそれを把握していることがわかる。
現地入営者、すなわち沖縄で兵隊にとられた沖縄県民については、他県から沖縄にきた兵士よりも土地勘があったり家族や知り合いが付近にいるなど脱走が容易な条件が整っていることもあり、脱走事案が一定数あったのだろう。沖縄戦の地上戦がはじまると、防衛隊も含め兵士の脱走や投降も頻発するが、いわゆる皇民化教育や軍の玉砕思想が必ずしも徹底せず、生きようとする県民の強い意志を感じることもできる。
それとともに、ことさら現地入営した沖縄県民の脱走に注意しているところには、「軍事思想ハ不十分」「皇室国体に関する観念徹底しあらす」と沖縄県民を蔑み、また疑いの目で見てきた明治以降の軍の沖縄県民観が見え隠れしている。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第5号(琉球新報2005年2月10日)
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疎開者でごった返す平良港、なかでも子どもや女性の姿が目立つ:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード 02014314】