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【沖縄戦:1945年5月26日】陸軍中央、陸軍航空隊による沖縄方面航空特攻作戦を事実上打ち切る

第62師団の退却攻勢

第62師団の退却攻撃部署 
 第62師団長は軍命令に基づき、およそ次のように攻撃部署を定めた。

歩兵第64旅団(独立歩兵第22大隊、独立歩兵第23大隊の第5中隊を欠き、独立速射砲第32中隊属)を25日夜、津嘉山付近に先遣し、同地付近で防衛に任じている特設第3連隊とその他の部隊を併せて指揮し、与那原西2キロの宮平、宮平南1キロの喜屋武の線を確保させ、師団主力は26日夜、現戦線を撤退し津嘉山南方地区に移動し、東方への攻撃を実施する。
歩兵第63旅団長に特設第4連隊、戦車第27連隊、重砲兵第7連隊、船舶工兵第23連隊、独立歩兵第272・第273大隊、独立機関銃第4大隊、独立速射砲第22大隊などをあわせて指揮させ、与那原南1.5キロの大里方面に進入南下中の米軍を撃破させる。

 攻撃部署は以上であるが、各隊の戦力は極度に低下しており、連隊・大隊とは名ばかりで、実質は一個中隊以下といえる程度であった。独立速射砲第22大隊は速射砲1門、独立機関銃第4大隊は人員約30名、重機関銃2、軽機関銃3、擲弾筒3といった状況であった。

第62師団の退却攻勢の状況 
 25日夜、歩兵第64旅団司令部は津嘉山、独立歩兵第21大隊は津嘉山北東1キロの兼城にそれぞれ移動し、独立歩兵第15大隊(独立速射砲第32中隊属)は28日よる津嘉山東方2キロの87高地付近に移動した。
 第62師団主力は、この日夜からおよそ次のように移動、集結した。降雨のため移動はきわめて困難であったという。

歩兵第63旅団司令部 26日夜津嘉山南西1キロ長堂に移動
独立歩兵第11大隊(独立歩兵第273大隊属) 26日夜津嘉山南2キロ友寄に移動
独立歩兵第12大隊(独立速射砲第22大隊属) 26日夜津嘉山南1.5キロ宜壽次に移動
独立歩兵第13大隊(独立機関銃第4大隊主力属) 28日夜与那原南南西2キロ平良に移動
独立歩兵第14大隊 27日長堂南金良に移動
師団工兵隊 26日夜首里出発、27日島尻南部の摩文仁西4キロ山城に到着、師団司令部の施設作業
師団通信隊 26日夜主力津嘉山に移動
師団輜重隊(師団病馬廠属) 26日夜長堂集結、2個中隊を編成して独立歩兵第21大隊の指揮下に入り、本部は島尻南部の山城に移動し糧食や弾薬の収集に当たる
師団野戦病院 22日ごろから津嘉山南西3キロ付近に移動開設
戦車第27連隊 26日夜長堂集結
特設第4連隊 23日以来与那原南西3キロ高平にあって戦闘中、第32野戦貨物廠長伊藤馨主計大佐以下100名
重砲兵第7連隊 26日ころ与那原南2キロ大里付近で米軍と交戦中
船舶工兵第23連隊 25日ころ主力は稲福付近に集結、重砲兵第7連隊長の指揮下に入る

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梅雨のさなかシュガーローフ・ヒルにある第4海兵連隊第1大隊司令部 45年5月26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号97-01-3】

26日の戦況

 首里司令部東方の与那原方面では、豪雨のなかで日米の激突がつづいた。米軍は与那覇地区から西進し、津嘉山東2キロの87高地に猛攻してきたが、守備隊はこれを撃退した。
 雨乞森南方地区の米軍は逐次南進し、これを阻止しようと抵抗をつづけていた重砲兵第7連隊および船舶工兵第23連隊は部隊幹部の死傷者が続出し戦力が低下、特設第4連隊の協力を得て米軍の南進阻止に努めた。

 米軍の首里を包囲できるという明るい望みは、与那原から首里に至る線を確保しようとしたとき、すっかり消しとばされてしまった。第三二連隊は、五月二十三日から二十六日にかけての戦闘で日本軍防衛線の前面でそのまま釘づけにされてしまったのだ。
 日本軍は多くの対戦車砲や機関銃をもって、この戦略的に重要な丘陵地帯を奪ろうと進撃してくる米軍めがけて、通路一帯に猛烈な砲火をあびせ、迫撃砲弾は集中弾となって降ってきた。第三二連隊は、もし戦車が使用できたら、おそらく日本軍陣地を殲滅できたかもしれない。だが、連日の雨のために、戦車は泥にはまって動けなくなっていたのである。
 五月二十六日の雨は豪雨で、八十八ミリを記録した。その後の十日間は、毎日、平均三十ミリの雨が降った。ホッジ少将は、後日、沖縄作戦中、最も心配だったのが、雨にたたられながら第三二連隊が、首里後方戦線を突破しようとしたこの時期だったと述懐している。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 首里司令部西方の那覇方面においては、米軍は那覇市西方地区に進出したが、戦線に特別の変化はなかった。
 松川、末吉、大名、石嶺、弁ヶ岳の戦線では戦闘があったものの、現陣地は確保された。
 第24師団長は第62師団主力および戦車連隊の転進に伴い、中地区隊の歩兵第32連隊長に石嶺地区の旧左地区隊を併せて指揮し、石嶺以東弁ヶ岳にわたる間の防衛に当たらせ、独立歩兵第22大隊には平良町以西独立混成第44旅団地区にわたるあいだの防衛にあたらせるなど、防禦部署を変更した。

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墓に隠れている日本軍に向かって火炎放射をする海兵隊員 45年5月25~26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-20-2】

第32軍の南部撤退と海軍の誤解

 第32軍はこの日、大本営および関係方面へ首里放棄・南部撤退を報告した。一方で小禄付近の海軍沖縄方面根拠地隊は、6月2日以降に軍からの命令をうけて小禄から南部へ撤退する予定になっていたが、この指示を誤解し、この日に南部の真栄平へ撤退してしまった。また、この際、携行運搬が困難な重火器類のほとんどを破壊してしまった。軍司令部は海軍部隊の撤退を把握して驚愕し、様々な検討をした結果、28日に小禄への復帰を命令した。
 こののちに小禄方面へ米軍が上陸し、海軍沖縄方面根拠地隊と熾烈な戦闘を展開することになるが、海軍はこの撤退による重火器の破壊などで戦力を著しく低下させており、斬り込みによる白兵戦で米軍に抵抗することになる。

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日本軍の激しい攻撃により壊滅状態となった第4海兵隊L中隊ライフル部隊 45年5月24日~26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号72-28-3】

連合艦隊指揮下からはずれた第6航空軍

 沖縄方面航空作戦を担う陸軍航空部隊である第6航空軍は、45年3月26日以降連合艦隊司令長官の指揮下に入ったが、この日の大陸命により28日をもって連合艦隊司令長官の指揮下からはずれ、航空総軍の隷下・指揮下に戻った。

 大陸命第一三三六号
一 南西諸島方面ニ於ケル作戦ニ関シ第六航空軍司令官ヲ聯合艦隊司令長官ノ指揮ヨリ除ク
二 指揮転移ノ時機ハ五月二十八零時トス
三 細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 第6航空軍が連合艦隊の指揮下からはずれることについては、あらたに連合艦隊司令長官となる小澤治三郎中将より第6航空軍菅原道大中将の方が古参であり、小澤司令長官の下に菅原司令官を置けないという配慮もあったようだが、他方で陸軍が本土決戦を遂行する準備のための措置であり、その意味で陸軍が沖縄方面の航空作戦を事実上打ち切ったものともいわれる。

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米軍の大砲で包囲攻撃される那覇 瓦が散乱している 後方ではすさまじい砲煙が上がっている 45年5月24日~26日:沖縄県公文書館【写真番号85-07-1】

新聞報道より

 この日の大阪朝日新聞は沖縄の戦況を次のように報じている。

空挺隊沖縄に強行着陸
 特別攻撃隊義烈隊
  北、中飛行場爆砕
   敵大混乱、戦果を拡大
大本営発表(昭和二十年五月二十五日十六時三十分)一、陸軍大尉奥山道郎の指揮する我特別攻撃隊義烈空挺部隊は五月二十四日夜沖縄本島北及中飛行場の敵中に強行着陸し直ちに在地敵機、軍需品集積所、飛行場施設等を相次いで爆砕、敵を混乱に陥らしめ大なる戦果を収めつつあり
二、右攻撃に策応し我特別攻撃飛行隊は沖縄本島周辺の敵艦船を猛攻中なり
 荒鷲、陸海の敵を猛攻
【南西諸島基地特電二十五日発】我が航空部隊は二十四日深更から二十五日未明にかけ沖縄本島北、中両飛行場及び海上敵艦船を攻撃、二十四日午後十時過ぎには北飛行場に火災を発生、敵物資集積所の燃料らしきものが盛に誘爆を起していた、なほ海上には二十数箇所に爆発炎上する火柱が見られた、本島西海面においては巡洋艦一隻がその片舷を殆ど水面すれすれに傾かせて旋回しているのが認められた、敵は二十四日昼戦艦、巡洋艦数隻をもって中城湾沿岸に艦砲射撃を加へ我と交戦した、二十四日列島に対する来襲敵機は相変らず二百機内外であった

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

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那覇の前線にて食事を待つ列 6インチものぬかるみに並んで立っている 45年5月26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号91-04-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

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那覇市街戦で破壊された波上宮とこれを見つめる海兵隊員たち:沖縄県公文書館【写真番号74-22-1】