【沖縄戦:1945年6月11日】「敵戦車群ハ我ガ司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ 根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス」─海軍沖縄方面根拠地隊の壊滅
海軍部隊の壊滅
この日早朝から海軍沖縄方面根拠地隊司令部壕のある豊見城の74高地は米軍に包囲攻撃され、海軍部隊は最後の抵抗を試みていた。海軍部隊大田司令官はこの日午後、第32軍長参謀長に次のように打電した。
海軍部隊の主力はいわゆる「玉砕」をするとしても、一部に残置した部隊や生き残った兵士にあくまでも遊撃戦を展開し米軍に出血を強要することを命令するものであり、同時に陸軍部隊などに脱走兵や逃亡兵と間違われないように配慮した電文といわれる。
また大田司令官はこの日15時ごろの戦況を次のように報告している。
また、この日夜、次のように報告した。
海軍部隊の戦闘はこれ以降も続いたが、大田司令官はついにこの日夜、戦闘は最後の局面に至ったとして、牛島司令官に対し、
と打電した。そしてこの夜をもって海軍部隊の組織的戦闘は終焉を迎えた。
翌12日も残存兵が抵抗を続けるが、12日16時には海軍部隊との通信は完全に断絶したといわれる。大田司令官は13日午前1時、司令部壕内で自ら命を絶ち、海軍部隊はここに壊滅した。
八原高級参謀は戦後、海軍部隊の最後について次のように回想している。
独立混成第15連隊第1大隊の「玉砕」
沖縄南部の戦況としては、摩文仁司令部右翼の具志頭、安里付近は引き続き米軍の攻撃をうけ、玻名城東側の91高地(現八重瀬町玻名城サザンリンクスゴルフクラブに隣接する高地か)頂上付近は米軍に占領され、玻名城集落、安里集落、安里北部の断崖など主要陣地を何とか維持しているような状況となった。
摩文仁司令部右翼を守備する独立混成第44旅団鈴木旅団長は、91高地の奪回や安里方面の増援などの処置をとったが、91高地奪回はできず、頂上近くで米軍と対峙した。
具志頭陣地で抵抗をつづけていた独立混成第15連隊(美田連隊)第1大隊はついに兵力損耗し、野崎直彦大隊長以下20余名はこの日夜、旅団に訣別電を発し、総員斬込みを敢行して壊滅した。
第24師団が守備する摩文仁司令部左翼では、各陣地が米軍の攻撃をうけ、米軍の一部は与座集落付近にまで進出した。また戦車3両を伴う米軍が照屋の前進陣地を制圧し、照屋南側に進出した。
軍はこの日の戦況を次のように報告した。
石川収容所での日々
現うるま市の石川収容所ではこの日、収容者へのレクリエーションとして大規模な演芸大会が開催された。
米軍上陸後、各地に収容所が設置され、軍人はPW、POW(prisoner of war:捕虜)、民間人はCIV(civilian:市民)として区別され、それぞれ隔離、収容された。
そのなかで石川収容所はかなり早い時期から設置された民間人収容所で、5月ごろには1万人以上、8月には3万人もの民間人を収容した大規模な収容所であった。また石川収容所では8月15日に沖縄各地の収容所の代表が集まり、仮沖縄人諮詢会が開催され、沖縄諮詢会が組織される。同会は占領期の沖縄での初の住民代表機関であった。
石川収容所での経験を語る新垣ハルさん:NHK戦争証言アーカイブス
石川収容所での「戦果アギャー」について語る登川誠仁さん:NHK戦争証言アーカイブス
一般的に収容所では男性は米軍飛行場の建設作業など、女性は米軍の軍服の洗濯などの作業が割り当てられ、昼間はこうした作業に従事した。子どもたちについては「学校」が少しずつはじめられていったことは以前述べた通りである。また、このように演芸大会や映画の上演、劇団の慰問など住民へのレクリエーションが開催され、住民代表機関が結成されるなどの出来事もあったが、全般的に食糧事情は厳しく、衛生状態も悪く、収容所のなかでマラリアや赤痢などが蔓延することもあった。
ただし、いうまでもなく米兵へ反抗的な態度をとることは許されなかったし、作業のため外に出た女性が米兵の性暴力の被害にあったり、女性が収容されているテントを米兵が襲うといった事件もたびたび発生した。
宇垣長官の日記
沖縄方面航空特攻作戦を指揮していた海軍第5航空艦隊宇垣纒司令長官はこの日、日記に次のように記している。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号)
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
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2018年に海軍司令部壕で開催された旧海軍司令部壕慰霊祭への沖縄県知事の献花:筆者撮影