見出し画像

【沖縄戦:1945年6月11日】「敵戦車群ハ我ガ司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ 根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス」─海軍沖縄方面根拠地隊の壊滅

海軍部隊の壊滅

 この日早朝から海軍沖縄方面根拠地隊司令部壕のある豊見城の74高地は米軍に包囲攻撃され、海軍部隊は最後の抵抗を試みていた。海軍部隊大田司令官はこの日午後、第32軍長参謀長に次のように打電した。

 一一一三三七番電
 敵後方ヲ攪乱又ハ遊撃戦ヲ遂行ノ為相当数ノ将兵ヲ残置ス
 右将来ノ為一言申シ残ス次第ナリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 海軍部隊の主力はいわゆる「玉砕」をするとしても、一部に残置した部隊や生き残った兵士にあくまでも遊撃戦を展開し米軍に出血を強要することを命令するものであり、同時に陸軍部隊などに脱走兵や逃亡兵と間違われないように配慮した電文といわれる。
 また大田司令官はこの日15時ごろの戦況を次のように報告している。

 一一五二七番電
 沖根連合陸戦隊戦闘概報

一 宜保ヨリ北上ノ敵ハ一三〇〇戦車ニ伴フ約五〇豊見城部落ノ南端ニ対シ更ニ一部ハ豊見城城跡高地ニ侵入セリ
二 地覇、宇栄田方面ヨリ侵入ノ敵ハ戦車二輌ヲ先頭ニ一三〇〇、七四高地西方三〇〇迄近接肉攻斬込ヲ以テ激戦中ナリ
三 小禄部落南端金城間片点線路、金城西方四粁五〇・八高地□三叉路ノ線ニ於ケル敵ノ重圧ハ逐次増大激戦熾烈ヲ極ム
  [略]

(同上)

 また、この日夜、次のように報告した。

 一一二二四三番電
 沖根連合陸戦隊戦闘概報第六二号

一 早朝ヨリ司令部ニ対スル包囲攻撃熾烈トナリ司令部全力及九五一空一部ヲ以テ夕刻ニ至ル迄陣前ニ邀撃、弾薬尽ル迄ニ戦闘ヲ交ヘ多大ノ出血ヲ強要セリ
  司令部陣前ニテ二〇〇〇迄ニ収メタル戦果人員殺傷約一、〇〇〇
二 同右被害一一〇

(同上)
画像1
海軍司令部壕の幕僚室 壁には幕僚たちが手榴弾で自決した跡が残る また大田司令官の「大君の御はたのもとにししてこそ人と生れし甲斐ぞありけり」との壁書も見える:筆者撮影

 海軍部隊の戦闘はこれ以降も続いたが、大田司令官はついにこの日夜、戦闘は最後の局面に至ったとして、牛島司令官に対し、

敵戦車群ハ我ガ司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ 根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス 従前ノ厚誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル

(同上)

と打電した。そしてこの夜をもって海軍部隊の組織的戦闘は終焉を迎えた。

画像7
小禄で日本軍陣地を攻撃する米軍戦車 小禄ということと地形、撮影日時から、右側の高地は海軍司令部壕のある74高地と思われる 45年6月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-35-1】

 翌12日も残存兵が抵抗を続けるが、12日16時には海軍部隊との通信は完全に断絶したといわれる。大田司令官は13日午前1時、司令部壕内で自ら命を絶ち、海軍部隊はここに壊滅した。
 八原高級参謀は戦後、海軍部隊の最後について次のように回想している。

 小禄地区の戦闘は、当初すこぶる悲観的で、一挙に潰滅するのではないかと危ぶまれたが、漸次戦勢を持ち直し、金城、豊見城、七五高地付近の一角でよく健闘し、その戦況報告は日々確実に軍司令部に到達した。しかし衆寡敵するはずもなく、敵の包囲圏は日々圧縮され、「敵はわが司令部洞窟を攻撃し始めた。これが最期である。無線連絡は十一日二三三〇を最後とする。陸軍部隊の健闘を祈る」の電報が十一日夜遅く、我らの手にはいった。長恨限りなく、悲痛極まりなし。大田将軍、棚町、羽田、前川の各大佐に顔が目に浮かぶ。いくたびか戦いを議し、ともに飲み、談じた人々の数々の思い出こそ、哀れである。謹みて敬弔の誠を捧げるのみ。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)
画像2
司令部壕の通路の一角 米軍との戦闘で徐々に兵士たちが司令部壕に追いつめられ、壕内は立錐の余地もなかったといわれる:筆者撮影

独立混成第15連隊第1大隊の「玉砕」

 沖縄南部の戦況としては、摩文仁司令部右翼の具志頭、安里付近は引き続き米軍の攻撃をうけ、玻名城東側の91高地(現八重瀬町玻名城サザンリンクスゴルフクラブに隣接する高地か)頂上付近は米軍に占領され、玻名城集落、安里集落、安里北部の断崖など主要陣地を何とか維持しているような状況となった。

画像6
11日の戦況 赤線が米軍の進出ライン 摩文仁司令部右翼での米軍の進出が激しいことがわかる:戦史叢書『大本営陸軍部』<10>より

 摩文仁司令部右翼を守備する独立混成第44旅団鈴木旅団長は、91高地の奪回や安里方面の増援などの処置をとったが、91高地奪回はできず、頂上近くで米軍と対峙した。
 具志頭陣地で抵抗をつづけていた独立混成第15連隊(美田連隊)第1大隊はついに兵力損耗し、野崎直彦大隊長以下20余名はこの日夜、旅団に訣別電を発し、総員斬込みを敢行して壊滅した。
 第24師団が守備する摩文仁司令部左翼では、各陣地が米軍の攻撃をうけ、米軍の一部は与座集落付近にまで進出した。また戦車3両を伴う米軍が照屋の前進陣地を制圧し、照屋南側に進出した。
 軍はこの日の戦況を次のように報告した。

 球参電第七一二号其ノ一(十二日〇二二〇発電)
 十一日ノ地上戦況
 安里北側高地ニ於テハ朝来約三〇〇ノ敵ト猛烈ナル争奪戦ヲ連続撃攘シアルモ我カ陣地右翼其ノ他正面ニ待機中ノ敵主力依然熾烈ナル艦砲□□□ノ砲撃ヲナシ反覆増援ヲ企図シアリ………之ニ伴ヒ湊川沖輸送船一隻増加兵器資材ノ補給強化シアリ
 陣地与座岳及左翼正面ニハ戦車数輌乃至十数輌ヲ伴フ一部ノ敵我主陣地ノ各所ニ進攻シ来リ午前………砲ノ適切火力発揚ニ依リ戦車擱坐三、人員殺傷一〇ノ損害ヲ与ヘテ撃退一両且著シク敵ノ攻撃本格化スヘキヲ予期シ軍ハ満ヲ持シアリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

石川収容所での日々

 現うるま市の石川収容所ではこの日、収容者へのレクリエーションとして大規模な演芸大会が開催された。

画像4
石川収容所の演芸会で合唱する小学生 キャプションには45年5月撮影とあるが、おそらく誤りであろう:沖縄県公文書館【写真番号74-21-1】
画像5
石川収容所での演芸会に参加した1万2000人もの聴衆 45年6月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号74-24-3】
画像6
石川収容所の演芸会で踊る山田ツルちゃん(10歳) 45年6月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号74-24-2】

 米軍上陸後、各地に収容所が設置され、軍人はPW、POW(prisoner of war:捕虜)、民間人はCIV(civilian:市民)として区別され、それぞれ隔離、収容された。
 そのなかで石川収容所はかなり早い時期から設置された民間人収容所で、5月ごろには1万人以上、8月には3万人もの民間人を収容した大規模な収容所であった。また石川収容所では8月15日に沖縄各地の収容所の代表が集まり、仮沖縄人諮詢会が開催され、沖縄諮詢会が組織される。同会は占領期の沖縄での初の住民代表機関であった。

石川収容所での経験を語る新垣ハルさん:NHK戦争証言アーカイブス

石川収容所での「戦果アギャー」について語る登川誠仁さん:NHK戦争証言アーカイブス

 一般的に収容所では男性は米軍飛行場の建設作業など、女性は米軍の軍服の洗濯などの作業が割り当てられ、昼間はこうした作業に従事した。子どもたちについては「学校」が少しずつはじめられていったことは以前述べた通りである。また、このように演芸大会や映画の上演、劇団の慰問など住民へのレクリエーションが開催され、住民代表機関が結成されるなどの出来事もあったが、全般的に食糧事情は厳しく、衛生状態も悪く、収容所のなかでマラリアや赤痢などが蔓延することもあった。
 ただし、いうまでもなく米兵へ反抗的な態度をとることは許されなかったし、作業のため外に出た女性が米兵の性暴力の被害にあったり、女性が収容されているテントを米兵が襲うといった事件もたびたび発生した。

宇垣長官の日記

 沖縄方面航空特攻作戦を指揮していた海軍第5航空艦隊宇垣纒司令長官はこの日、日記に次のように記している。

 六月十一日 月曜日 〔半晴〕
  [略]
 第三二軍航空参謀神中佐クリ舟にて沖縄脱出、徳之島より飛行機にて本未明串良に帰着、すぐに来訪健在の顔を見せたるは嬉し。しかして真新しき深刻なる沖縄戦の報告を聴くを得たり。
 第九師団の抽出が敗戦の主因なるもなお七万五〇〇〇の兵力を以てする作戦準備、作戦計画、訓練及び統帥用兵において欠くるところ少なからざるを遺憾とす。されども敵の一〇分の一の資材を以て奮戦し四ー五師団を立つ能わざらしめたるは大にこれを認むべし。
 今や南端の山岳地常[地帯カ]に後退しあと十日の持続は奇蹟たるべしと言う。軍司令官より感謝の伝言ありたるも事ここに至らしめたる我またその責に任ずるものなり。
 同参謀は棚町大差の参謀長宛ての書簡をもたらす、鉛筆書きなるも沖根の内情、戦闘の状況、戦訓等細々と記し来れり最後の筆となるべきか。
  [略]

(宇垣纒『戦藻録』下、PHP研究所)

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号)
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)

トップ画像

2018年に海軍司令部壕で開催された旧海軍司令部壕慰霊祭への沖縄県知事の献花:筆者撮影