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【沖縄戦:1945年7月16日】護郷隊の解散─「スパイ」として殺された少年護郷隊員

護郷隊の解散

 第2護郷隊(第4遊撃隊)岩波寿隊長は恩納岳で米軍に包囲されながら遊撃戦を展開していた。恩納岳には特設第1連隊長青柳時香中佐の率いる一隊もおり、青柳連隊長は国頭支隊の宇土支隊長にかわり沖縄北部の日本軍の指揮を一応任されていた。
 青柳連隊長は岩波隊長の意見も聞き、恩納岳を出撃し米軍の警戒線を突破して久志岳に転進することを決した。6月2日夜、青柳連隊長率いる一隊や岩波隊長率いる第2護郷隊など各隊は恩納岳を出撃したが、米軍の警戒線にかかり交戦、潜伏しながら恩納岳北東6キロの安仁堂付近に達した。その後、青柳連隊長率いる一隊は恩納岳に復帰し、第2護郷隊は国頭北部へさらに北進した。
 第2護郷隊は7月10日、久志岳東方に達し、岩波隊長はそこで第1護郷隊(第3遊撃隊)村上治夫隊長と会い、第32軍の壊滅を確認した。
 村上隊長は7月1日を期して決死の総攻撃をおこなう予定であったが、副官の照屋規吉軍曹などの意見により、7日より秘密遊撃戦に移行していた。隊本部や各中隊の一部は山中に残ったが、地元出身の隊員は各出身地に帰還潜伏させ、秘密遊撃戦の基盤づくりを担うことになっていた。この際、山中に避難している一般住民にも下山を指示している。
 岩波隊長は村上隊長と会い、第32軍の壊滅と第1護郷隊の秘密遊撃戦への移行をうけ、第2護郷隊も秘密遊撃戦に転移することに決した。その上で隊本部をタニヨ岳東8キロの有銘西方の山中に置き、本部要員と一部の中隊長を残置させる他、隊員は帰還潜伏させることとし、この日隊を解散した。
 第1護郷隊にせよ第2護郷隊にせよ、秘密遊撃戦の名の下に隊員を帰還、潜伏させたが、再度の召集はなく、そのまま終戦を迎えた。隊員は時折隊本部を訪れ、また村上隊長などは変装して隊員のもとを訪れ、歓談することもあったそうだ。秘密遊撃戦といっても事実上の解散であった。

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護郷隊の碑の建設工事の状況:護郷隊編纂委員会『護郷隊』(私家版)

「スパイ」として殺された少年護郷隊員

 護郷隊は、隊長(大隊長)や中隊長は陸軍中野学校出身の諜報要員で構成されていたが、隊本部の副官クラスや小隊長分隊長などは在郷軍人、末端の隊員は召集されたやんばるの少年たちであった。召集された少年隊員のなかには、召集年齢に達していない者もおり、また召集手続きもめちゃくちゃな違法な召集が横行していたため、戦後、補償の関係などでも問題となったそうだ。
 村上隊長については、「隊長が勉強を教えてくれた」といった微笑ましいエピソードもあり、少年隊員の一部からは今でも好意的な印象がある。東京から来た若くスマートな雰囲気の村上や中野学校出身将校たちは、少年隊員たちにとって憧憬の対象でもあったのだろう。村上も少年隊員が任務に励む様子について、「運動会でも楽しんでいるように」などと表現している。戦後、村上は沖縄にたびたび出向き、慰霊をおこなうなどした。岩波も沖縄の復興に役立とうと、沖縄の人々の本土への就職や元隊員の就学などに協力したという。こういうことも戦後の彼らのそれなりによい評価を生んだのかもしれない。

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護郷隊第一回慰霊祭に参列し弔辞を読む村上:上掲「護郷隊」

 しかし護郷隊での訓練や戦闘の実際は、そのような牧歌的なものではなかった。下は15歳ぐらいの少年たちを即席のゲリラ兵士とするため、小隊長や分隊長は徹底的に暴力をふるって少年隊員を鍛え上げ、軍人精神を教育していった。何か些細なミスをとらえて「全体責任」として少年隊員同士で殴り合わせたり、銃口を口にくわえさせ「自決」の訓練までさせたという。
 また軍人による少年隊員の殺害も発生している。恩納岳撤退の際には、軍医が負傷して動くことのできなかった少年隊員を拳銃で射殺するのを見たという証言がある。他にも恩納岳撤退にあたって、野戦病院に負傷した少年隊員らが取り残され、渡された手榴弾で自決したということもあったそうだ。

元護郷隊員である仲泊栄吉 動画の16分54秒以降で、軍医が護郷隊員を射殺したことについて証言している:NHK戦争証言アーカイブス

 その他、「スパイ」として殺された少年隊員もいた。現在の名護市出身の少年隊員であった屋比久松雄さんは、分隊長の集合命令に遅刻したため「スパイ」と決めつけられ、「処刑」された。分隊長は遅刻した屋比久さんに激怒し、他の少年隊員に拘束を命じ、屋比久さんの手を山のカズラで縛り、目隠しをし、山中の炭焼き窯まで連行した。そして窯の上に立たせた屋比久さんを撃つよう数名の少年隊員に命令したという。屋比久さんは郷土の先輩である分隊長の命令により、幼馴染みの手で「スパイ」として殺されたのであった。
 護郷隊員は陸軍中野学校の校歌「三三壮途の歌」の歌詞をかえた「護郷隊歌」をよく歌わされたという。歌には「郷土を護るはこの俺達よ」との一節があるが、少年たちは軍により鼓舞され、また「故郷を自分たちの手で護るのだ」とおだてられながらも、足手まといとなったり「スパイ」として疑われれば殺されていったのであった。

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平和学習として名護小学校に隣接して建立されている少年護郷隊之碑を見学する名護小の6年生:しんぶん赤旗2018年6月23日

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)
・三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)

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56年の沖縄訪問時の村上:上掲「護郷隊」