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【沖縄戦:1945年6月3日】米軍、伊平屋島へ上陸─米兵捕虜や住民の虐殺を繰り返した伊平屋、伊是名の諜報要員と日本兵部隊

3日の戦況

 津嘉山陣地の撤退により、米軍はこの日、津嘉山、現八重瀬町の宜寿次、同友寄北側、現南城市の目取真付近まで進出し、友寄付近の第2収容陣地の歩兵第22連隊および東風平北東の独立歩兵第21大隊などと交戦した。
 知念半島方面では、重砲兵第7連隊および船舶工兵第23連隊は米軍の圧迫をうけ、東風平東4キロの現南城市糸数方向に後退しつつあった。すでに両部隊は幹部将兵の死傷が相次ぎ、解隊状況を呈していた。また大城北側150高地では依然として独立歩兵第14大隊が陣地を占領していた。

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6月3日の米軍進出線(紫)と、主要な地名(緑)および各隊の所在地(赤):戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 小禄、豊見城方面では米軍は現豊見城市の根差部付近に進出し、海軍沖縄方面根拠地隊と激戦となったが、米軍はこの日夜21時ごろ根差部を占領した。

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小禄、豊見城方面の米軍の進出線(紫)と主要な地名:同上

伊平屋、伊是名の戦争と離島残置諜者

伊平屋島 
 米艦船はこの日、伊平屋島を包囲し、艦砲射撃をくわえるとともに、6千名以上の兵力で上陸してきた。伊平屋島には軍部隊が配備されておらず、米軍側は無血上陸であった。日本側は米軍の砲爆撃により47名の死傷者が出た。
 もともと伊平屋・伊是名諸島には、伊平屋島に国民学校の訓導として陸軍中野学校出身の諜報要員である斉藤義夫少尉が「宮城太郎」の偽名で、伊是名島に青年学校教員として同じく馬場正治軍曹が「西村良雄」の偽名で、それぞれ「離島残置諜者」として送り込まれていた。なお、もともと斉藤は軍参謀部情報班に、馬場は第1護郷隊に配属されており、その後に離島残置諜者として送り込まれた。
 彼らは伊平屋、伊是名諸島が沖縄北部の離島であることから、国頭支隊や第1護郷隊の村上治夫隊長らと連絡を取り合うこともあったが、島ではそれぞれ諜報要員として活動した。しかし、この二つの島では戦時下の様相は大きくことなった。
 それというのも伊平屋島には奄美諸島の古仁屋基地を飛び立ったパイロットが漂着するなど敗残兵がおり、彼らは米軍の上陸に対し斬り込みをおこなおうとしたが、諜報要員の斉藤などがこれを止めたという。結局、敗残兵たちは斉藤の説得もあり住民に紛れ込み米軍に投降した。その後は米軍占領下で比較的安定していた様子が確認できる(住民殺害などは起きていない)。

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伊平屋島の集落を進軍する海兵隊員:沖縄県公文書館【写真番号81-07-1】

伊是名島 
 一方の伊是名島でも、伊平屋島と同じように特攻隊員が漂着したり、米軍の伊平屋島上陸後に国頭支隊の敗残兵(平山大尉以下の平山隊〔独立重砲兵第100大隊〕)が海路逃げてくることもあった。伊是名島の離島残置諜者の馬場と、伊平屋島から伊是名島にたびたび来島し馬場と連絡を取り合っていた斉藤らは、自然とこうした日本兵部隊と共に行動するようになった。そうしたなかで、伊是名島では日本兵部隊による捕虜の殺害や住民殺害が発生している。住民らは彼ら日本兵部隊らを「軍当局」と位置づけ、その行為を黙認し、また一部の住民が虐殺行為に加わるなどした。
 米兵捕虜の殺害としては、伊江島から飛び立った米軍機が被弾し乗組員の米兵が伊是名島にゴムボートで漂着したということがあった。米兵は捕虜となり、集会場広場に連行されたため、多くの住民が米兵捕虜の姿を目撃している。離島残置諜者の馬場と斉藤は英語で米兵への尋問をおこなったという。米兵捕虜は学校長住宅の敷地内でしばらく監禁されていたが、残置諜者らは捕虜に英語で「伊江島に帰す」と伝え、島の浜に連れていき、ゴムボートの準備をさせている際、背後から拳銃で殺害したという。その他にも日本兵部隊が漂着した米兵2名を殺害し、浜に穴を掘って埋めたという証言もある。米兵2名のうち1人はまだ息があったが、そのまま穴に投げ込まれ、埋められたともいわれる。
 住民虐殺としては、いわゆるバクローといわれる家畜商を営んでいた喜名政明と奄美大島出身の少年3人も殺害された。チナースー(喜名主)とのあだ名で呼ばれていた喜名は伊平屋島に渡る機会があり、そこで米軍による伊平屋島の占領を知り、伊是名島に帰島後、住民に「戦争は負けた」などと話したため、島の日本兵部隊によって殺害された。
 また奄美大島出身の少年たちは伊是名島に漁夫として身売りされていたが、島で差別的に扱われていた。少年の一人のイチローが腹いせに「島に日本兵がかくまわれていると米兵に密告してやる」と言い放ったところ、「軍当局」は米兵捕虜の虐殺もあり、恐怖からイチローともう一人の少年のツネオを捕まえ、監禁した。しかしオオサカーといわれる少年が2人の少年を逃がしたため、オオサカーが捕まり、またイチローとツネオも捕まり、3人とも日本刀で切り殺されたといわれる。
 軍当局とされた日本兵部隊は、翌46年1月か2月に奄美大島へ脱出を試みたが、結局米軍に捕まり、沖縄の屋嘉収容所に収容された。
 なお戦後、離島残置諜者の斉藤は伊平屋島の野甫島に教員として残っていたが、46年2月米兵が学校にやってきて、逮捕されたという。斉藤は捕虜殺害には加わっていたが、住民殺害にどこまで関与していたかは不明であるが、知らなかったとは考え難い。斉藤はその後、琉球大学の教員となり一時沖縄で暮らすなどした。沖縄戦研究者から住民虐殺について問われても、斉藤は何も語ろうとしなかったという。

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伊平屋島の「レッドビーチ」に向けて上陸のため進軍する米軍舟艇 45年6月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号101-03-1】

後方指導挺身隊(沖縄県庁)の解散

 島田叡知事率いる沖縄県後方指導挺身隊は、5月25日より南部撤退を開始し、29日には与座岳の第24師団の壕で住民の避難について軍と協議するなどしたが、ついにこの日、島田知事は挺身隊を現状の組織のままで維持し行動することは難しいとして、組織を3~5人の班に分散、解隊し、それぞれ避難して住民の保護にあたるよう指示した。これにより島田知事は現糸満市の秋風台の壕を脱出し、荒井警察部長とともに伊敷の轟の壕に入ったという。事実上の解散であった。
 後方指導挺身隊は挺身隊本部、企画班、戦意高揚班、増産指導班、壕設営指導班および各分遣隊などからなり、県職員が構成員であった。いわば沖縄県庁が後方指導挺身隊となっていたわけだが、その後方指導挺身隊が事実上の解散をするということは、沖縄県庁もここに事実上の解散をしたということである。

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那覇駅を見回る水陸両用部隊の海兵隊員 45年6月3日撮影:沖縄県公文書館【写真番号73-38-4】

新聞報道より見る「沖縄からの本土爆撃」

 北飛行場、中飛行場など日本軍飛行場を制圧した米軍は、これらの飛行場を拡張し、また新たに沖縄の占領地で飛行場を建設し、そこから多数の軍用機を出撃させ、第32軍壊滅までは主に沖縄南部への日本軍陣地への攻撃、それ以外にも九州など本土空襲を繰り返したことは以前触れた通りである。そうした「沖縄からの本土爆撃」について、大阪朝日新聞のこの日の新聞報道からその一端を伺うことができる。

小型機頻襲に厳戒
 敵ロケット弾を使用
二日朝南九州に来襲したグラマンF6F、ヴォート・シコルスキーF4U二百余機の攻撃目標は依然沖縄作戦に協力しわが特攻阻止に置かれていると判断されるが、沖縄地上作戦は今や重大関頭に当面し、又義烈空挺部隊によって使用を拘束していた北飛行場も最近使用を開始した模様であり、これらの諸醸成から沖縄を基地とする小型機の九州来襲は今後漸次頻化するものと予想され警戒の要がある、二日の来襲はこの沖縄の基地からする小型機の本格的来襲の前触れとも見られるが、基地航空機の本格的来襲が頻化した暁敵の攻撃目標は飛行場のみならずやがて生産施設あるひは交通機関の破壊にも拡大されることは当然のことであり、速やかに小型機来襲に備へる万全の対策を整へる必要がある、同日の来襲機にP51の如き陸上小型機を見なかったことはわが義烈空挺部隊及び空挺部隊降下と前後して加へられたわが航空部隊の猛攻により敵の陸上小型機が甚大なる損害を被りその補充として母艦から艦上機を陸上に推進したことを如実に物語るものと判断されるが、その機数は少くとも三百機を下らぬとみられる、なほ敵機は小型ロケット爆弾を使用した

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沖縄島周辺上空を飛行するF4U機:沖縄県公文書館【写真番号109-34-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)

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伊平屋島にて米海兵隊から輸血と応急処置をうける日本人 撮影日不明:沖縄県公文書館【写真番号97-11-1】