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【沖縄戦:1945年2月15日】第32軍戦闘指針「一人十殺一戦車」 「県民はゲリラ戦を以つて向かふのである」─第32軍参謀、県民にゲリラ戦の展開を訴える

撃敵合言葉「一人十殺一戦車」

 この日、第32軍司令部は、以下の戦闘指針を各部隊に通達し徹底をはかった。

第三十二軍戦斗指針 第一号
撃敵合言葉(標語)
一機一艦船
一艇一船
一人十殺一戦車

第二号 
敵上陸ノ砲爆撃ニ対シテハ我戦力ノ温存ニ徹スベシ
 之カ為
一、築城ノ掩護力ヲ重視スルト共ニ分散遮蔽偽装欺騙ノ価値ヲ認識スベシ
二、陣地ヘノ配兵時機ヲ適切ナラシムベシ

第三号
上陸シ来ル敵ニ対シテハ絶対威力圏内ニ於テ之ヲ補足シ一挙殲滅ヲ計ルベシ
 之カ為
一、射撃開始ノ過早ヲ警メ敵上陸軍ノ第一波ハ自由ニ上陸セシメヨ
二、火器ノ絶対威力圏ハ其ノ最大射程ノ十分ノ一以下ナリト心得フベシ
三 捕捉ノ要ハ不動如山敵ヲ誘ッテ我ノ腹中ニ致スニ在リ

第四号
敵戦車ノ突進容易ナル地形特ニ道路ノ阻止施設ヲ準備スヘシ
 之ガ為
一、海岸地帯ノ平素不要ノ道路ハ破壊スベシ
二、平素使用スル道路ハ地雷其ノ他ノ障碍資材ヲ準備シ急速ニ阻止シ得ル如ク計画準備スベシ

第五号
軍ハ如何ナル事態ニ於テモ断ジテ『パニック 恐慌』ヲ生ゼシメザルヲ絶対ノ信条トスベシ
(1)「パニック」ハ各級指揮官指揮権ノ承行厳粛ナラザルニヨリ生ズ 熾烈ナル砲爆撃下指揮官自ラ必勝ノ信念ト堅確不動ノ意志ヲ以テ毅然トシテ戦斗ヲ指揮スベシ
(2)「パニック」ハ不意ノ衝撃ニヨル狼狽ヨリ生ジ易シ
  諸隊ハ真ニ形而上下ニ亘リ「待ツアルヲ恃ム」ノ状態ニ在ルヲ緊要トス
(3)精神訓練ヲ重視スルノ要アリ
「参考」
 国軍ニ於テハ他国軍ニ比シ「パニック」ノ現象少キハ当然ナルモ左ノ例アリ 反省ヲ要ス
 (イ)昭和十九年九月上旬「ダバオ」ニ於ケル敵上陸ノ誤報ニ際シ海軍ハ幾多貴重ナル火砲・資材等ヲ破壊シ附近住民ハ雪崩ヲ打ッテ山地ヘ逃避セリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 戦闘指針第一号については、沖縄島での地上戦がはじまると「一機一艦船」は航空特攻、「一艇一船」は海上特攻として、「一人十殺一戦車」は手榴弾や急造爆雷を抱えた「斬込み」といわれる自爆攻撃として体現された。特に「斬込み」は兵士だけでなく、防衛召集された少年や女性も含む民間人にも命じられ、彼らは急造爆雷を背負い敵陣に突入し、あるいは戦車に体当たりするなどの自爆攻撃を敢行した。
 また戦闘指針第三号は、4月1日の米軍沖縄島上陸はじめ沖縄戦の基本戦略となったが、米軍の無血上陸と飛行場の制圧に大本営は戦慄し、戦略持久を基本とする第32軍に攻勢移転を命じることになり、第32軍の戦略に狂いを生じさせた。

当時の新聞報道より

 この日の沖縄新報に「現地軍参謀談 自信と闘魂持て 軍官民一体、必ず勝つぞ」との見出しの現地軍参謀の談話が掲載される。現地軍参謀とは、具体的には長参謀長のことだろうか。あるいは八原高級参謀以下の参謀たちかもしれないが、いずれにせよこの談話にある内容が第32軍司令部の意思と考えてよい。

現地軍参謀談
 自信と闘魂持て
  軍官民一体、必ず勝つぞ

敵は比島作戦に相次ぎ勢に乗じて新たなる侵寇を企画し爪牙を磨いて蠢動、その行動を開始した、[略]最後に最悪の情況に入り敵上陸せば飽くまで軍の戦力に信頼し必勝不屈の信念をもつて戦ひ得るものは統制ある義勇隊員として(3人組など編成)し指揮者の下秩序ある行動をとり村や部落単位に所在の軍に協力すること、戦場の情況は千差万別従つて県民の仕事も種々あらう、弾丸運び、糧秣の確保、連絡、その何れも大切であるが直接戦闘の任務につき敵兵を殺すことが最も大事である、県民の戦闘はナタでも鍬でも竹槍でも身近なもので軍隊の言葉で言ふ遊撃戦をやるのだ、県民は地勢に通じて居り、夜間の斬込、伏兵攻撃即ちゲリラ戦を以つて向ふのである、万一作戦上敵に本島の一角をゆだねる事がある場合敵はその住民をかり立てゝ道路や飛行場を造らすであらう。その場合でも昼は敵の命に従うと雖へども夜となればその造つたのを破壊し去るとか敵兵をやつつけるとかして何処までも戦ひ続ける、同時に一般住民は敵襲の間隙を利し食ふものを確保する努力も肝要である、日本人は昔から戦場に於て女子供もよく協力して来た、誇らしき伝統である、軍隊の進撃路の前に右往左往して邪魔になるが如き今から厳に心すべきことを銘し敢闘して貰ひたい。

(『那覇市史』資料編第2巻中の2)

 この記事から、そもそも軍に住民を守るという発想はなく、「コマ」として徹底的に利用する考えしかないことが明白であり、沖縄戦そのものが日本軍による「沖縄救援」などというものでは絶対にないことが理解できる。
 また、この日の沖縄新報の社説には、次のような一節がある。

 [略]
 国頭郡に老幼者、妊産婦、病弱者を疎散させるのも沖縄が戦場になることが予想されるからだ、戦力となり得ないものはいざといふ場合軍の足手纏ひとなる外はないのでこれを防ぐため予め備へようといふのだ。即ち戦力を強くせんがための疎散だ、作戦の要求に応じて欣然進んで疎散してこそ戦力の強化に協力するものと言へるであらう。これに反し徒に不安にかられ危険だから国頭に逃げるのだといふ気持であつては完全に敗北である、[略]

(『那覇市史』資料編第2巻中の2)

 「疎開とは住民の保護や避難を第一に考えてのものではない」と何度も指摘してきた。この社説の一節は、軍や沖縄県の意思を直接あらわすものではないが、軍民全体の認識として疎開についての共通感覚がこのようなものであったと理解できる。

第32軍船舶隊の海上遊撃戦準備

 大町茂大佐率いる第32軍船舶隊は、海上挺進作戦や雷撃作戦の準備をするとともに輸送業務などに従事していたところ、軍は14日に船舶工兵連隊に海上遊撃戦準備を命じ、次いでこの日、海上遊撃戦基地にただちに配置することを命じた(球作命甲第106号)。また軍船舶隊の一部は、沖縄島北部を守備する国頭支隊の指揮下となった。
 なお軍船舶隊は3月10日から12日までの3日間、那覇の学校で海上挺進攻撃の兵棋演習を実施し、第32軍牛島司令官や海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官および軍首脳、ならびに海上特攻関係者が参加し特攻作戦を研究した。

沖縄県下市町村単位の義勇隊の編成がはじまる

 この日、大政翼賛会沖縄県支部が主体となり、県警察部が推進役となって全県下に義勇隊が結成されることになった。市町村毎に市町村名を附した義勇隊が結成され、さらにその下部組織として部落毎や町内会毎に義勇隊が結成された。全県下の義勇隊は県知事が総括し、各警察署長が管内の義勇隊を統制することとなった。
 そもそも義勇隊とは、防衛召集された者以外の民間人で編成され、弾薬の運搬や陣地構築作業、食糧の確保・運搬など後方支援業務に従事するものである。ただし後方支援業務といっても、戦闘が激化するなかでの弾薬運搬などは危険なものであり、多くの義勇隊員が落命した。また銃の使用や射撃訓練なども行われ、直接戦闘に参加させられたケースもある。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県議会史』第12巻 資料編9 新聞集成Ⅱ
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

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第32軍司令官や幕僚および沖縄方面根拠地隊司令官などの集合写真:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム所蔵【資料コード02000407】【ファイル番号001-04】