【沖縄戦:1945年2月15日】第32軍戦闘指針「一人十殺一戦車」 「県民はゲリラ戦を以つて向かふのである」─第32軍参謀、県民にゲリラ戦の展開を訴える
撃敵合言葉「一人十殺一戦車」
この日、第32軍司令部は、以下の戦闘指針を各部隊に通達し徹底をはかった。
戦闘指針第一号については、沖縄島での地上戦がはじまると「一機一艦船」は航空特攻、「一艇一船」は海上特攻として、「一人十殺一戦車」は手榴弾や急造爆雷を抱えた「斬込み」といわれる自爆攻撃として体現された。特に「斬込み」は兵士だけでなく、防衛召集された少年や女性も含む民間人にも命じられ、彼らは急造爆雷を背負い敵陣に突入し、あるいは戦車に体当たりするなどの自爆攻撃を敢行した。
また戦闘指針第三号は、4月1日の米軍沖縄島上陸はじめ沖縄戦の基本戦略となったが、米軍の無血上陸と飛行場の制圧に大本営は戦慄し、戦略持久を基本とする第32軍に攻勢移転を命じることになり、第32軍の戦略に狂いを生じさせた。
当時の新聞報道より
この日の沖縄新報に「現地軍参謀談 自信と闘魂持て 軍官民一体、必ず勝つぞ」との見出しの現地軍参謀の談話が掲載される。現地軍参謀とは、具体的には長参謀長のことだろうか。あるいは八原高級参謀以下の参謀たちかもしれないが、いずれにせよこの談話にある内容が第32軍司令部の意思と考えてよい。
この記事から、そもそも軍に住民を守るという発想はなく、「コマ」として徹底的に利用する考えしかないことが明白であり、沖縄戦そのものが日本軍による「沖縄救援」などというものでは絶対にないことが理解できる。
また、この日の沖縄新報の社説には、次のような一節がある。
「疎開とは住民の保護や避難を第一に考えてのものではない」と何度も指摘してきた。この社説の一節は、軍や沖縄県の意思を直接あらわすものではないが、軍民全体の認識として疎開についての共通感覚がこのようなものであったと理解できる。
第32軍船舶隊の海上遊撃戦準備
大町茂大佐率いる第32軍船舶隊は、海上挺進作戦や雷撃作戦の準備をするとともに輸送業務などに従事していたところ、軍は14日に船舶工兵連隊に海上遊撃戦準備を命じ、次いでこの日、海上遊撃戦基地にただちに配置することを命じた(球作命甲第106号)。また軍船舶隊の一部は、沖縄島北部を守備する国頭支隊の指揮下となった。
なお軍船舶隊は3月10日から12日までの3日間、那覇の学校で海上挺進攻撃の兵棋演習を実施し、第32軍牛島司令官や海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官および軍首脳、ならびに海上特攻関係者が参加し特攻作戦を研究した。
沖縄県下市町村単位の義勇隊の編成がはじまる
この日、大政翼賛会沖縄県支部が主体となり、県警察部が推進役となって全県下に義勇隊が結成されることになった。市町村毎に市町村名を附した義勇隊が結成され、さらにその下部組織として部落毎や町内会毎に義勇隊が結成された。全県下の義勇隊は県知事が総括し、各警察署長が管内の義勇隊を統制することとなった。
そもそも義勇隊とは、防衛召集された者以外の民間人で編成され、弾薬の運搬や陣地構築作業、食糧の確保・運搬など後方支援業務に従事するものである。ただし後方支援業務といっても、戦闘が激化するなかでの弾薬運搬などは危険なものであり、多くの義勇隊員が落命した。また銃の使用や射撃訓練なども行われ、直接戦闘に参加させられたケースもある。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県議会史』第12巻 資料編9 新聞集成Ⅱ
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
トップ画像
第32軍司令官や幕僚および沖縄方面根拠地隊司令官などの集合写真:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム所蔵【資料コード02000407】【ファイル番号001-04】