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【沖縄戦:1945年5月19日】米軍、崇元寺方面に進入 「敵ニ多大ノ出血ヲ強要シアルハ洵ニ満足ニ思フ」─昭和天皇、第32軍に「御嘉賞」を賜う

首里司令部攻略戦

 この日、首里司令部西方地区(那覇北方地区)の米軍の攻撃は比較的ゆるやかであったが、シュガーローフ・ヒルが米軍に占領されたため、安里からその西方の崇元寺町方面に配備されていた独立混成第15連隊第2大隊は右翼からの攻撃をうけ苦戦した。しかし同連隊の健闘ぶりは、軍首脳も感嘆するところであったといわれる。

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5月19日の首里司令部防衛線の戦線概況図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 首里司令部北方の大名高地、末吉南側高地も米軍の攻撃をうけたが、陣地を守りきった。

 米軍は第五海兵連隊が大名高地や五五高地方面を攻めたて、また第七海兵連隊は、沢岻丘陵を完全に確保したが、それにもかかわらず、日本軍は大名丘陵の陣地を守りつづけて頑張っていた。彼らのたてこもっている陣地からは海兵隊の両連隊がまる見えなのだ。
  [略]
 そこで五月十七日の朝、第三海兵大隊は第一大隊と交替して、大名丘陵を三日間にわたって連続的に攻撃した。しかし、そのたびに沢岻南端の元の陣地に押しかえされた。この攻撃では、たいていの場合、頂上まで到達することはできなかった。しかし、頂上にようやく達したと思ったとたん、たちまち前面と両翼から、迫撃砲や機関銃の熾烈な砲火にあい、せっかくの頂上も制圧はしたものの、確保はできなかった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 首里司令部北東では、石嶺高地で米軍と40メートルから200メートルという接近した距離での戦闘となっていた。
 石嶺東方の130、140、150の各高地の陣地は米軍の攻撃をうけ、130高地の独立第29大隊は洞窟に閉じ込められ、140高地の歩兵第22連隊第2大隊(平野大隊)の本部洞窟も馬乗り攻撃をうけた。150高地の伊東大隊は引き続き同高地西側斜面で抗戦をつづけた。
 130、140、150高地の南西方地区に布陣する独立速射砲第3大隊(一法師大隊長)は、残存する2~3門の速射砲で健闘を続けた。
 首里司令部東方運玉森方面では、運玉森北西の100メートル閉鎖曲線高地で接戦が続けられた他は、大きな動きはなかった。

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転覆する日本軍戦車 その横には日本兵の遺体が放置されている 45年5月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号87-19-3】

義号作戦実施通知

 九州を本拠とする陸軍航空部隊である第6航空軍は、かねてから沖縄への空挺特攻(義号作戦)の実施を望み、軍中央に許可を求めていた。
 空挺といえばパラシュート降下を想像するが、義号作戦では義烈空挺隊(奥山道郎隊長)による米軍飛行場への強行着陸を作戦としていた。すなわち沖縄の北・中飛行場に強行着陸し、駐機中の米軍機の爆破、破壊と軍需物資の焼却という第一期攻撃を達成したのち、米軍占領地域である読谷山岳東側に集結し、ゲリラ戦を展開し後方攪乱の第二期攻撃の実施という作戦であった。
 そもそも義烈空挺隊は、44年11月、サイパンのB-29基地を強襲し本土空襲を妨害するために結成された部隊であった。サイパン方面空挺特攻は45年1月に実施となったが、このころ硫黄島への米軍の上陸可能性が高まったことにより作戦は中止となった。義烈空挺隊の硫黄島方面空挺特攻実施という計画もあったが、最終的に第6航空軍は義烈空挺隊を沖縄方面へ投入することを軍中央に求め、紆余曲折を経て5月18日に実施認可となり、第6航空軍はこの日、第32軍に実施を通知した。
 こののち義烈空挺隊は5月24日19時ごろ熊本の健軍飛行場を発進し北、中飛行場を強襲することになるが、これについてはあらためて確認したい。

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北飛行場に強行着陸した義烈空挺隊員を乗せた日本軍機 45年撮影:沖縄県公文書館【写真番号94-33-2】

軍の戦況報告

 軍はこの日夜、義号作戦実施の通知をうけ、次の報告電を発した。

 球参電第六六七号(十九日二二二〇発電)
  [略]
 第三十二軍ハ計八箇師団ノ敵ト相見ヘ我カ損害甚大ト雖モ既ニ敵五乃至六師団ノ攻撃力ヲ完全ニ破摧敵ニ与ヘタル打撃ハ極メテ大ナルモノアリ
 諸情報ヲ綜合スルニ一両日来敵有力船団逐次本島方面ニ到着中ニシテ敵ハ更ニ兵力資材増強中ナルモノノ如シ 此ノ時ニ当リ義号作戦ノ実行ヲ見ントスルハ誠ニ機宜ニ適セルモノニシテ飽ク迄必勝ヲ信シ徹底セル総戦力ヲ結集シ本島周辺ノ敵艦船群ニ一大痛撃ヲ加ヘンカ敵ノ作戦企図ヲ破摧スルコト難事ニ非ス
 軍ハ義号作戦ノ成功ヲ確信士気軒昂挙軍渾身ノ勇ヲ奮ヒ新ナル敵ノ攻勢ヲ断乎破摧センコトヲ期シアリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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安里川沿いの木に電線を架線する通信兵 45年5月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号95-39-3】

昭和天皇の御嘉賞

 参謀総長は18日、戦況上奏にあたり昭和天皇から第32軍への御嘉賞の御言葉を賜った。第32軍はこの日、参謀総長より次の電報をうけとった。

五月十八日ノ戦況上奏ニ際シ「第三十二軍カ来攻スル優勢ナル敵ヲ邀ヘ軍司令官ヲ核心トシ挙軍力戦連日克ク陣地ヲ確保シ敵ニ多大ノ出血ヲ強要シアルハ洵ニ満足ニ思フ」トノ御言葉ヲ賜リタリ

(上掲戦史叢書)

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海兵隊の「フリット・ガン・スカッド」(殺虫スプレー隊) 彼らは最前線の部隊のすぐ裏で、DDTを噴霧し害虫と戦う 45年5月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号73-02-2】

久米島警防日誌より

 この日の久米島警防日誌には、次のようにある。

 五月十九日 土 曇  午後一時 我ナハ保系宿直
  [略]
一、本日大田、小港橋前方飛行兵ノ死体漂着大田ヨリノ伝令ニ依リ山里在ノ陸軍辻上等兵並飛行兵ニ通知直チニ来場飛行兵二人ト上等兵団長立会ノ上大田牛闘場東側ニ仮埋葬ス多分一昨日自爆ノ搭乗兵ナラン
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 久米島の大田、小港橋付近に飛行兵の遺体が漂着したため、島の陸軍辻上等兵と飛行兵、警防団長立ち会いのもと仮埋葬した、おそらくこの遺体は一昨日自爆した搭乗兵では、とある。
 それでは一昨日(17日)の警防日誌を見ると、次のようにある。

 五月十七日 晴 木  我那覇保系
  [略]
一、十八時五十分友軍機一機敵機二機ノ為メ撃墜サレ鳥島東側前方海岸ヨリ約二百米突ノ所ニ散乱シテ墜ル鳥島警防団員ハ直チニ現場ニ駆ケ付搭乗員ヲ捜査セシモ見当ラズ汐ノニゴリト夜入ノタメ明タス
  [略]

(同上)

 17日に日本軍機一機が敵機(米英軍機)により撃墜され、搭乗員を捜索したが見つからなかったと記されている。おそらくこの際の搭乗員の遺体がこの日見つかったということであろう。
 ここに出てくる陸軍辻上等兵や飛行兵については以前も触れた。久米島には鹿山正兵曹長率いる海軍部隊が配備されていたが、それ以外にも漂着した陸軍特攻隊員や地上戦前に兵員引き取りのため久米島を訪れ、そのまま戦況が悪化して帰れなくなった兵士など若干の陸軍兵がおり、兵士の遺体が発見されたため呼ばれ、仮埋葬に立ち会ったのだろう。

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沖縄の地元住民 45年5月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号114-14-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
『読谷村史』戦時記録 下巻 

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怪我をした地元の女性住民を後方に案内する海兵隊員と前線へ進む海兵隊員 45年5月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号78-03-4】