【沖縄戦:1945年6月14日】「劣悪ナル装備ト僅少ナル弾薬トヲ以テ奮戦中ナリ」─摩文仁司令部右翼で激戦つづく 米バックナー司令官による降伏勧告
14日の戦況
摩文仁司令部右翼を守備する独立混成第44旅団は、引き続き米軍との死闘を展開した。米軍に進出された後も陣地を保持して抵抗を続けた91高地および玻名城の独立混成第15連隊第4大隊(伊藤廣治少佐を長とする臨時編成部隊)も伊藤大隊長以下ほとんどが戦死した。
旅団隷下の独立混成第15連隊美田連隊長は第2大隊中島大隊長(独立速射砲第7大隊長)に91高地の奪回を命じ、中島大隊長は電信第36連隊の中隊を伴って攻撃したが大隊長以下死傷して失敗した。
混成旅団左地区隊の特設第7連隊平賀連隊長も旅団と連絡が途絶し孤立しながら抵抗を続けていたが、隊本部が爆破され戦死した(平賀連隊長の戦死は6月19日とする記録もある)。また仲座の旅団砲兵隊本部は米軍の馬乗り攻撃をうけ全滅した。
混成旅団は仲座南側台地、仲座集落、122高地、八重瀬岳156高地の線を保持した。また、この日、独立歩兵第13大隊が仲座南側に到着し、同旅団の指揮下に入った。
摩文仁司令部左翼の第24市団正面でも激戦が続き、与座岳および大里付近は米軍の猛攻をうけたが抵抗し、与座岳およびその西方高地を確保した。最左翼の国吉、真栄里方面では陣地を確保したものの、米軍は戦車および空中投下による補給を実施しながら攻撃前進してきた。国吉台地と真栄里北側台地を確保したものの、米軍は国吉台と真栄里台地の中間から進出し、両台地の背後から攻撃を仕掛けてきた。
なお独立混成第44旅団が守備する摩文仁司令部右翼の八重瀬岳の状況について、第24師団や軍砲兵隊はこれまでたびたび軍司令部を通じて独立混成第44旅団に八重瀬岳の防備を固めるよう要請していた。旅団からは八重瀬岳には部隊を配備しているとともに、敵影は見えないとの報告があり、軍司令部としては状況の把握が困難となっていた。
そうしたなかでこの日、第24師団木谷参謀長から軍司令部に対し、八重瀬岳に対する混成旅団の対応を批判し、作戦地境外ではあるが第24師団から部隊を配備させるとの厳しい連絡があった。
軍司令官はこれをうけて混成旅団方面に増援に向かっていた第62師団独立歩兵第15大隊に即刻八重瀬岳に向かうよう命令したが、同大隊の飯塚豊三郎大隊長は歩行困難で担架に乗って指揮をとり、部隊の人員も主力は失い、後方要員で間に合わせている状態であり、もはや部隊の体をなしていなかった。
軍司令部はこの日の戦況を次のように報じている。なお「……」の部分は断絶し、記録に残っていない箇所である。
「愈々最後ノ御奉公ヲ期シ劣悪ナル装備ト僅少ナル弾薬トヲ以テ奮戦中ナリ」との一節に、軍の苦しい戦況が見てとれる。
バックナー司令官による降伏勧告
この日、米第10軍バックナー司令官による牛島司令官宛ての二度目の降伏勧告がおこなわれた。バックナー司令官による降伏勧告は10日に引き続くものだが、これが軍司令部のもとに届いたのは八原高級参謀の回想によると17日のことであった。バックナー司令官は11日には日本軍の降伏を待ったというが(17日の降伏勧告の返答を待ったかどうかは不明)、当然ながら日本軍からの降伏の申し入れなど何らかの返答はなかった。
以下、若干日付が錯綜しているが、バックナー司令官の降伏に関する八原高級参謀の回想を紹介したい。
米軍は12日には降伏勧告について牛島司令官からの返答がなかったことを非難するビラを配布し、将校と一般兵士の離間をはかろうとしているが、このようにバックナー司令官の降伏勧告は、おそらく米軍の心理戦の一環と位置づけられるべきものだろう。
バックナー司令官は翌15日には「沖縄戦は峠を越した。あとは最後の追い込み戦だけだ」と観測し発言した。事実このころの沖縄戦が「ジャップハンティング」といわれる一方的な殺戮戦となっていたことは以前触れた通りだが、バックナー司令官は18日に日本軍の砲撃に巻き込まれ戦死した。日本軍は一時、敵将の首をとったとばかりに狂喜したが、全体の戦況は何もかわらなかった。また米兵はバックナー司令官の戦死により日本人への憎悪を増し、虐殺行為をはたらいた。
久米島警防日誌より
昨日米軍偵察隊が上陸した久米島では、島に配備されていた海軍鹿山隊(通称「山の部隊」「山」)が神経を尖らせていた。久米島の警防団のこの日の日誌には、次のように記されている。
山隊長とは鹿山隊長のこと、北原事件とは昨日の米偵察隊の上陸と住民拉致事件のこと、山兵舎とは鹿山隊の駐屯地のことであろう。
その他、当時久米島の具志川村の警防団長であった内川仁広のこの日の日誌には、次のようにある。
なお警防団はこの日、昨日の米偵察隊上陸に関連し、住民に次のような「達」を布告した。
この「達」は、警防団長であった内川仁広のこの日の日誌にある「北原事件にて各字へ手配の上、警戒をなす」に対応するものであろう。
文面を見れば明らかな通り、この「達」は鹿山隊の意向をくんだものであり、また翌15日には鹿山隊みずから同様の内容の「達」をあらためて布告していることなどから、実質的には鹿山隊による指示と考えてよいだろう。
こうして見ると、鹿山隊が恐れていたことは、米偵察隊の上陸により米軍本隊の上陸が近いということも当然あるだろうが、それ以上に住民が拉致され米軍と接触したことから、その住民が鹿山隊の戦備をはじめとする島の情報を漏洩したり、また島に戻り米軍の都合のよい情報を吹聴するなど、住民が「スパイ」になることだったということがわかる。事実、鹿山は戦後、次のように証言している。
こうして住民を警戒し疑心暗鬼となっているからこそ、米軍に接触した住民が島に戻った場合、誰にもあわせず、そのまま鹿山隊に連行しろというのであり、その指示に背いた場合は殺害すると脅迫しているのである。そして鹿山隊は実際に、これ以降住民殺害、虐殺に手を染めていくことになる。
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
トップ画像
那覇の街を眺望し指揮をとるバックナー司令官(右から3人目)、中央の指揮棒のようなものを持っているのは海兵隊シェファード司令官 45年5月14日撮影:沖縄県公文書館【写真番号81-34-1】