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勝ち組の定義は自分次第

「年収1000万だから、タワマンに住んでるから、東大卒だから(etc)私は勝ち組」
SNSではあらゆる勝ち組負け組論争が日々続いている。
この勝ち組負け組論争は全く無駄なものだと思っているが、人は他人と比較することが好きなのでこの話題は尽きない。
ではなぜこの論争が無駄なのか私なりに考えていることを述べていこう。


絶対的な勝ち組なんかない

まず勝ち組の絶対的な基準なんかないんだ。
世間では年収1000万が勝ち組とかタワマンに住めば勝ち組など言われる。
ただしそんな絶対的な基準はない。
あるのは他人と比較した相対的な基準(偏差値)だけだ。
その偏差値も基準とする集団によって大きく変わる。

確かにタワマンに住んでいる人は高所得であることが多い。
この高所得であるとは日本全体で見た場合だ。
だけど基準を狭めて都内タワマン内だけで見るとどうだろう。
その中でも格差が生まれる。
タワマンの最上階をポンと買った超富裕層と、ペアローンでなんとかやりくりして買ったアッパーマス層を同じ「勝ち組」とは見做さないだろう。

つまり万有引力のような世間で普遍の絶対的な勝ち組の基準がない以上、勝ち組の定義は見る人と集団によって千差万別だ。
日本で貧困層と言われている人でもアフリカ南部に行けば大金持ちだろう。

勝ち組負け組は時代によっても変わる

さらに勝ち組と言われる層は時代によって簡単に変わる。
江戸時代は士農工商という制度があり、武士が階級の頂点だった。
対して商人は卑しい職業(何も生み出さないから)として階級では下に見られていた。
だけども江戸時代が進むにつれて商人は金を持ち、武士は尊厳だけしかない状態になっていった。
加えて明治維新で士農工商が廃止されたことで、武士という尊厳すらも無くなってしまった。

勝ち組であったはずの階級がいきなりなくなる。
これは頻繁に起こるものではないが、古今東西どこでも起こりうるものだろう。

またタワマンが勝ち組と言われる昨今だが、高度経済成長期でタワマンのように持て囃されたものがある。
団地だ。

団地は当初憧れの的だった。
各家庭に風呂がつき、近くには商店もある。
近代的なライフスタイルの象徴として皆が憧れた。

でも今はどうだろう?
団地はどちらかというと低所得者が多く住む場所だと見做されているし、人気もない。
「団地の子と遊んじゃいけない」なんて親に言われたことがある人もいるくらいだ。
同じような流れはニュータウンと言われる郊外の集合住宅でも言われている。以前の憧れの住宅街が今や老人の徘徊する街と化している。

勝ち組負け組の基準なんて曖昧で移ろいゆくものなんだ。
そこに固執する意味はない。

幸せの基準は自分で決めよう。他人任せにすると幸せにはなれない

勝ち組負け組の基準は絶対的なものはなく、相対的なものだと分かってくれただろう。
勝ち組だから幸せとか、負け組だから不幸とか考えても意味がないんだ。
ではここからは勝ち組負け組にとらわれず幸福感を高める方法について考えていこう。

勝ち組負け組の絶対的な基準がない以上、幸せの基準は自分で決めることが必要だ。
その際に他人を基準にすると幸福感は減る。

どんなに金持ちになってもビルゲイツには勝てない。
でもビルゲイツに勝てないことは幸せになれないわけではない。

幸せの基準はあくまで自分自身にすべきだ。
この自分を基準にするとは、過去の自分を基準にすることだ。

昨日の自分ができなかったことを、今日の自分はできるようになった。
この進歩している実感に人は幸福を感じるようにできている。

楽しかった子供の頃を思い出して欲しい。
難しかった7の段の九九が言えるようになった、リフティングが20回できるようになった、プールで25m泳げるようになった。
これらの出来なかったことができるようになる瞬間は誰でも覚えているだろう。

大人になるとこの成長している実感が湧きづらい。
仕事内容が複雑だし、成果がすぐに出るものではないからだ。

なので日々の成長を記録しておこう。
これはなんでも大丈夫。
ダイエットの結果でもいいし、預金金額でもいい。
筋トレの結果でも保有株の総額でも大丈夫だ。
数値化して日々の変化を見れるものならなんでも大丈夫。
日々の変化が上向きであれば、過去の自分から成長していることがわかる。
この成長している実感は、あなたの幸福度を高めてくれる。

ただし他人と比較するのはやめよう。
「他の人はもっと預金が多い、筋トレの重量も重い…」
この他人との比較は自己肯定感を下げてしまう。
あくまでも比較するのは"過去の自分”だ。

それでも他人と比較してしまうなら

ここまでの説明を聞いても、他人と比較することが辞められないようなら解決策がある。
SNSを辞めよう。
SNSは見る必要のない他人の世界を可視化してしまう。
タワマンの中の限られたヒエラルキーをあなたに強要してくる。

幸福度世界一だったブータンではインターネットの普及により幸福度は急落した。
今までの幸福感の基準だった家畜の数や織物の上手さが、SNSの普及によってデカい車やブランドバックに変わってきたからだ。
そんなものブータンには今まで必要なかったのに。

はっきり言ってSNSは無駄だ。
Twitter中毒の私が言うから間違いない。
こんなものなくても生活に支障は全くない。

SNSが原因で不幸になっているなら、さっさと辞めてしまおう。

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