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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中30

「十地品」 ― 遠行地・不動地(2) ―  

 <十波羅蜜・大乗としての修行について>

先に、第七番目の遠行地(おんぎょうじ)、第八番目の不動地において”無生法忍”=空について、書いたのだが、この遠行地、不動地では、もう一つ1巡目で気になった点があった。それは、菩薩は遥かな高みに来ているはずなのだが、なぜか、急に十波羅蜜や、助道法(補助的な修行)について、説法されている点である。

 「常に是(かく)の如き道(どう)を行ず。〔中略〕所謂る施戒等の、十
 種の波羅蜜なり。是の如き諸(もろもろ)の菩薩の、修するところの福徳  
 を、皆諸の衆生に与うるを、壇波羅蜜と名(なづ)け、心の悪垢を滅除す
 るを、尸(し)波羅蜜と名け、六塵の為に傷けられざるは、羼提(せんだ
 い)波羅蜜
なり。能く転勝の法を起こすは、精進波羅蜜にして、是の道に
 於いて動ぜざるを、禅波羅蜜と名け、無性忍の照明(しょうみょう)なる 
 は、般若波羅蜜にして、仏道に回向するは、方便波羅蜜なり。転(うた
 た)勝れたる法を求むるを、願波羅蜜と名け、能く壊(やぶ)る者有るこ
 と無きを、力波羅蜜と名づけ、能く解(げ)して如実に説くを、智波羅蜜
 と名く」

   〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,p.267

時代ということもあり、また、漢訳に忠実である衞藤即應先生の和訳そのままでは、現代では少し馴染みがない為、「十住品」と関連が深いと言われている、漢訳の『十住経』(『新国訳大蔵経 十住経他 ⑤華厳部4』)の
木村清孝先生の注記(前掲書p.35)を基に、以下に十波羅蜜について簡単にまとめてみた。

 1)布施波羅蜜・・・惜しみなく施すこと〔上記、壇波羅蜜
 2)持戒波羅蜜・・・戒律をしっかり守ること〔上記、尸波羅蜜
 3)忍辱波羅蜜・・・耐え忍ぶこと〔上記、羼提波羅蜜
 4)精進波羅蜜・・・努力しつづけること
 5)禅定波羅蜜・・・深く心を静めること
 6)智慧波羅蜜・・・諸法が空であることを確信すること
           〔上記、般若波羅蜜
 7)方便波羅蜜・・・智慧を現実化させること
 8)願波羅蜜 ・・・智慧を求めること
 9)力波羅蜜 ・・・邪見や異論を退けること
 10)智波羅蜜 ・・・ありのままに全てを知ること

ここで、金剛蔵菩薩は、「修するところの福徳を、皆諸の衆生に与うる」としており、いわば回向(廻向)するために、十波羅蜜の修行を続けることが示唆されている。

さらに、金剛蔵菩薩の偈では、次のように誦されている。

 「汝は一切の煩悩の火を、除滅することを得(う)と雖も、当に諸(もろ
 もろ)の世間は煩悩常に熾燃(しねん)なりと観ずべし。当に元の所願を
 念じ、諸の衆生を利せんと欲し、〔中略〕広く一切を度すべし。」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,p.281

金剛蔵菩薩は、この偈で、修行者(菩薩)自身が煩悩の火を消した段階になったとしても、他者がまだその状態になっていないのであれば、それを救うべきだとしているのである。

大乗仏教と、それ以前の仏教の違いについて、水野弘元先生は、以下のように述べていらっしゃる。

 「原始仏教などの修行道と大乗の修行道の根本的な相違は、〔中略〕大乗
 の修行道は自己の完成よりもむしろ他人の救済や完成を第一目的としてい
 る点にある。〔中略〕大乗仏教は自利利他を兼ね、利他に重点を置くとさ
 れるのはそのためである。」

水野弘元,『仏教の基礎知識』,春秋社,2009,p.208

それはまるで、マラソン選手が、ゴールの手前で走るのを止め、沿道から他のランナーを声援するようなものである。自身のゴールを後回しにしてまで、他のランナーが完走するのを願い、応援するのだ。

翻って、自分はどうするであろうか、ゴール目前まで来て、他のランナーのことを、おもんばかれるであろうか。まずは、目の前に見えるゴールを目指してしまうかも知れない。そうして、汗を拭いたり、水分を補給したりと、自身のことばかりに気を回してばかりで、沿道に戻って応援することもすっかり忘れてしまうかも知れない。

かくも、ここまで来ると、文字通り、自分からは遥か遠い地(段階/ステージ)と言わざるを得ない。


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