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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中5

「世間浄眼品」

1巡目は、眠気に負けて、まったく気が付かなかったが、衞藤即應先生は、注釈に、以下のように書かれていらっしゃる。

 「重頌〔中略〕前に散文にて説きたるを、さらに偈は以て述べたる者をい
  う。本経中の偈は多く此の重頌なり。」 

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた。〕
  『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.98-99

なるほど、散文と、偈で、同様のことを述べているので、「余暇を有せざる者は、通じて偈頌を誦し」とのご意見になっておられるのであろう。

正直、菩薩、龍神、天王などの名前が累々と述べられており、『維摩経』や『般若心経』のような短いお経しか読んで来なかった私は、1巡目の際は此処にずいぶんと違和感を覚えたが、衞藤先生の先の言葉で、今回〔2巡目〕は大分楽になった気がする。

 「世間浄眼品」では、仏から発せられる光により、世界が満たされている
  様子が、様々な偈により、称えられている。

 「仏は無量の大光明を放ち、一一の光明には無量の仏あり、無数の方便を  
  もってみな悉く現じ、一切の衆生類を化度したまう。」

  〔旧字体を新字体に改めた他、旧仮名遣いを、新仮名遣いに改めた。〕
  『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.101-102
  
ところが、自らを省みて、果たしてそのような状況になっているのだろうかと考えてしまう。仏によって、度されているはずが、なぜ暗い闇の中にいるのであろうか。

それに対して、その理由として次のように示されているのかも知れない。

 「衆生は愚痴をもって心の目を瞽い、限り無く生死の中に輪廻す」

  〔旧字体を新字体に改めた他、旧仮名遣いを、新仮名遣いに改めた。〕
  『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.100
  
 「愚痴の障蓋甚だ堅固にして、衆生は生死の海に輪転す」

  〔旧字体を新字体に改めた他、旧仮名遣いを、新仮名遣いに改めた。〕
  『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.123

私を覆っている愚痴というベールはそれほどに堅固で、仏の光を通すことが無く、私はそれにより、仏の光を見ることができないのであろう。

では、どうすれば、良いのか・・・。『華厳経』はまだ出だしであり、「世間浄眼品」には、それは明らかにされていないが、端緒としての”愚痴”ということは説かれているのである。


  





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