『華厳経』睡魔・雑念 格闘中7
「如来名号品」・「四諦品」
この2つの品には、偈が頌されていない。
そのために、訳者でいらっしゃる衞藤即應先生による、「通じて偈頌を誦し」という貴重なご意見を踏まえ、2巡目としては、偈が無いこの2つの品は駆け足で進めようと思ったのだが、「四諦品」を丁度読み終えた後で、たまた見た映画の台詞がどうもこの品に影響されたのか、印象として残った。
「四諦品」には、苦諦・集諦・滅諦についての名(呼ばれ方)が様々である点が以下のように記されている。
苦諦・集諦・滅諦は、名前は違えど、どのような世界にも存在するということを強調している。
映画”PERFECT DAYS”の中で、役所広司さん演じるところの主人公が、姪に対してなのか、あるいは独り言なのか、姪の母親〔主人公にとっては妹〕について ”住んでいる世界が〔暮らしているだったか?〕違うのかもしれないな” という台詞があった。
主人公の気持ちは、妹には理解されないことの独白にも取れるのだが、同じようなことは、日々、自分の心を点検した際にも、感じるところである。
「自分の苦しみなど、分かってくれない、分かるはずもない。」
「四諦品」では、様々な世界において、苦がその世界毎に様々に呼ばれているのを示しているだけなのだが、世界=それぞれの個人と、読み替えると、人はそれぞれ違えど、苦は存在し、違うように見えても(呼び名が違っても)苦しみという存在があることは、どの世界=個人であろうと変わらないのだと言っているようにも思えた。
こういった場面では、ついつい視点が自分からの一方通行のものになりがちなのだが、他の人も、名前が違うが、苦しみという点では、何か同じものを抱えてるのかも知れないと思うことも必要なのかもしれない。
「自分を分かってはもらえないということは、自分も、他者を分かってあげられないのでは?」といった、反対の可能性の視点も大切になることがあるのかも知れない。
残念ながら、「四諦品」では、具体的なところは、書かれていないのだが、苦に対する対処である、集諦・滅諦もそれぞれ世界毎にあることが示されており、その救いの可能性が示唆されている。
なお、余談であるが、映画”PERFECT DAYS”は海外の監督の作品なのに、やけに日本的な、或は禅的な雰囲気は、どうしてなのであろうかと思ったのだが、見終わったあとに、調べたところ、日本の脚本家の方が共同執筆されており、さもありなんと思ったところである。
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