『華厳経』睡魔・雑念 格闘中10
「浄行品」
この「浄行品」は、仏教徒であることの誓いの言葉ともいえる、三帰依文(仏・法・僧の三宝に帰依する)が記されている点で有名なのだが、三帰依に関しては、原始の経典群のなかの「発句経」(第190)にすでに現れている。
もちろん、宗教的な意義からすると、帰依(信じる気持ち)は重要かつ、根本的な主題ではあるのだが、私にとっては、この「浄行品」は、”在家”というキーワードが表れている点に於いて、より重要に思えたのである。
「浄行品」は、その前の「菩薩明難品」の8番目に登場する智首菩薩が、菩薩の”身口意”の業はどのようなものであるのかを、文殊師利に問い、それに文殊師利が答える場面で構成されている。
智首菩薩の問いに対して、文殊師利は上記のように、在家の場合の例から始まり、次に出家の場合、その後、ある意味、在家・出家といった立場に関わらないような行動(トイレでの場合、手を洗う場合、歯磨きの場合など)や、目に映るものに対し感じること、食を得た場合のことなどについて、どのようにすべきかを細かい例を挙げて述べている。
出家・在家に関わらず、日々の暮らしというのは、それが僧院の中であろうと、家の中であろうと、暮らしぶりは違えど、修行以外の生活という部分では、一般化されうるであろう。文殊師利は、色々な現実の生活の場面での事例を挙げながら、それがそのまま、”願い”ということを通じて、仏道修行へと繋がるのだと、説いているのである。
つまり、「浄行品」では、出家者たちの専門的修行としての僧院における修行ばかりでなく、文殊師利がここで説かれたような、日常生活の場所での修行の有り様が示されていると言えよう。
作家としてだけではなく、仏教研究家としても知られている岡本かの子先生は、この日常(俗諦)と、その背後に広大に広がる真の世界(勝義諦)について以下のように述べている。
そして、その日常を通じての仏教の感得について、先程の「発句経」の訳者でもいらっしゃる、友松圓諦先生は、次のように私たちにアドバイスを送っている。
まさに、智首菩薩と、文殊師利との間で交わされる、知識というだけでなく、いわば、全人的な”身口意”といったところまで落とし込んでの納得が必要なのであろう。
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