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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中10

「浄行品」

この「浄行品」は、仏教徒であることの誓いの言葉ともいえる、三帰依文(仏・法・僧の三宝に帰依する)が記されている点で有名なのだが、三帰依に関しては、原始の経典群のなかの「発句経」(第190)にすでに現れている。

 「さとれるものと 真理〔まこと〕の法〔のり〕と 和合〔ひじり〕の
  集まりとに 帰依するものは 正しき知恵〔ママ〕をもって
  四つの聖なる真理を見る」

友松圓諦,『発句経講義』,講談社〔講談社学術文庫〕,2019,p.339

もちろん、宗教的な意義からすると、帰依(信じる気持ち)は重要かつ、根本的な主題ではあるのだが、私にとっては、この「浄行品」は、”在家”というキーワードが表れている点に於いて、より重要に思えたのである。

「浄行品」は、その前の「菩薩明難品」の8番目に登場する智首菩薩が、菩薩の”身口意”の業はどのようなものであるのかを、文殊師利に問い、それに文殊師利が答える場面で構成されている。

 「菩薩家に在らば、当に願うべし〔中略〕父母に孝事せば、当に願うべ
 し〔中略〕妻子集会せば、当に願うべし〔中略〕出家の法を求めば、当に
 願うべし」

 〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.272-274

智首菩薩の問いに対して、文殊師利は上記のように、在家の場合の例から始まり、次に出家の場合、その後、ある意味、在家・出家といった立場に関わらないような行動(トイレでの場合、手を洗う場合、歯磨きの場合など)や、目に映るものに対し感じること、食を得た場合のことなどについて、どのようにすべきかを細かい例を挙げて述べている。

出家・在家に関わらず、日々の暮らしというのは、それが僧院の中であろうと、家の中であろうと、暮らしぶりは違えど、修行以外の生活という部分では、一般化されうるであろう。文殊師利は、色々な現実の生活の場面での事例を挙げながら、それがそのまま、”願い”ということを通じて、仏道修行へと繋がるのだと、説いているのである。

つまり、「浄行品」では、出家者たちの専門的修行としての僧院における修行ばかりでなく、文殊師利がここで説かれたような、日常生活の場所での修行の有り様が示されていると言えよう。

作家としてだけではなく、仏教研究家としても知られている岡本かの子先生は、この日常(俗諦)と、その背後に広大に広がる真の世界(勝義諦)について以下のように述べている。

 「現実として日常私たちが見聞きするものは、ただ表面に現れた仮の姿
 で、実はその根源があって、しかもその根源は、私たちの通俗な知識では
 ちょっと感付けないのです。〔中略〕仏教は、この隠れていても実は私達  
 の日常見聞きする現実のあらゆるものをあやつっている根本をも、一緒に
 くっつけて現実を見詰めるのです」

岡本かの子,『仏教人生読本』,中央公論新社〔中公文庫〕,2007,pp.230-231

そして、その日常を通じての仏教の感得について、先程の「発句経」の訳者でもいらっしゃる、友松圓諦先生は、次のように私たちにアドバイスを送っている。

 「〔仏教の教えを〕自分の実際生活の中に溶かし込んでゆくという生活原
 理〔中略〕仏教というものはそんな理屈を理屈としてこね廻しているもの
 でなくして、自分の生活の上に、ハンブル〔謙虚の意か?〕な気持ちにな
 って『ああそうだなあ』とうなずく態度が大切だと思います。」

友松圓諦,『発句経講義』,講談社〔講談社学術文庫〕,2019,p.345

まさに、智首菩薩と、文殊師利との間で交わされる、知識というだけでなく、いわば、全人的な”身口意”といったところまで落とし込んでの納得が必要なのであろう。

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