『華厳経』睡魔・雑念 格闘中11
「賢首菩薩品」
この「賢首菩薩品」は、二つ前の、「菩薩明難品」にて9番目に登場する”賢首菩薩”と、文殊師利との問答の場面となっている。
漢訳の原本の都合だけの理由だったのか、あるいは、漢訳する前のサンスクリットの原本がそうなっていたのか、残念ながら、現段階で調べきれていないが、この品は、漢訳本では巻が分かれており、問答の意味内容から、わざわざ前半部と、後半部に分けたようにも思える。
前半部においては、「浄行品」での三帰依(仏・法・僧)を受け、以下のように、”信”をテーマに展開される。
三宝への”信”を礎にして、菩提心(さとりを求める心)が、発(おこ)されていくということが示されている。
1巡目では、各品がぶつぶつと、途切れているような印象を持ったのだが、今回の2巡目で、丁寧に読んでみると、ひとつ前もしくは、ふたつ前の品の内容をさらにテーマとしていたり、登場していた菩薩を、再度登場させ、各品どうしに繋がりを持たせていることが分かる。
そして、さらに、この”信”を基にして行われることが、さらに次の菩薩の段階へと進むための条件となることが、「若し能く〇〇〇ば、△△△ん。若し△△△ば、▢▢▢ん。」のように営々と述べられていく。
例えば、賢首菩薩が”四摂法”について述べている部分を抜き出してみよう。
ここで菩薩が具足する四摂法(四摂事)について、水野弘元先生の解説が詳しいので、参考として挙げたい。
そして、前半部の最後に、これらの段階的に身に着ける、菩薩としての資質は、”信”のみならず、”海印三昧”や、”華厳三昧”といった、”三昧”によって裏打ちされている点が示されるのである。
”三昧”についても、『大智度論』での解説を確認してみたい。
特にこの「賢首菩薩品」では、”海印三昧”・”華厳三昧”と呼ばれる”三昧”なのだが、その三昧については、 訳者の衞藤即應先生の解説にその内容が記られている。
正直、体験したことのないため、推測の域を出ないが、おそらく、心乱れることなく、出会う事象をそのままに、足すことなく、減らすことなく、心に受け止めるということが、”海印三昧”であり、あらゆる行を基に、外界の事象に乱されることの無い定心を得ることが、”華厳三昧”ということなのであろうか。
そして、「賢首菩薩品」の後半部では、この三昧についての様子が、光・色(華・宝石・珠)・音・香り・雨など様々な方向から語られるのだが・・・残念ながら、三昧を体験したことの無い身としては、文字面を追うばかりである。
それでも、賢首菩薩の次の言葉を心に留め、道をさらに進めたいと思う。
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