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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中11

「賢首菩薩品」

この「賢首菩薩品」は、二つ前の、「菩薩明難品」にて9番目に登場する”賢首菩薩”と、文殊師利との問答の場面となっている。

漢訳の原本の都合だけの理由だったのか、あるいは、漢訳する前のサンスクリットの原本がそうなっていたのか、残念ながら、現段階で調べきれていないが、この品は、漢訳本では巻が分かれており、問答の意味内容から、わざわざ前半部と、後半部に分けたようにも思える。

前半部においては、「浄行品」での三帰依(仏・法・僧)を受け、以下のように、”信”をテーマに展開される。

 「仏及び法と僧とに於いて、深く清浄の信を起し、三宝を信敬するが故
 に、能く菩提心を発(おこ)す。」
 〔中略〕 
 「信は能く諸の染著(ぜんぢやく)を捨離し、信は微妙(みみょう)なる
 甚深の法を解(さと)り、信は能く転(うた)た勝れたる衆善を成じ、究 
 竟(くぎょう)じて必ず如来の所に至らん。」

  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.288-289

三宝への”信”を礎にして、菩提心(さとりを求める心)が、発(おこ)されていくということが示されている。

1巡目では、各品がぶつぶつと、途切れているような印象を持ったのだが、今回の2巡目で、丁寧に読んでみると、ひとつ前もしくは、ふたつ前の品の内容をさらにテーマとしていたり、登場していた菩薩を、再度登場させ、各品どうしに繋がりを持たせていることが分かる。

そして、さらに、この”信”を基にして行われることが、さらに次の菩薩の段階へと進むための条件となることが、「若し能く〇〇〇ば、△△△ん。若し△△△ば、▢▢▢ん。」のように営々と述べられていく。

例えば、賢首菩薩が”四摂法”について述べている部分を抜き出してみよう。

 「〔前略〕若し能く諸の衆生を成就せば、則ち衆生を成就する智を得ん。 
 若し衆生を成就する智を得ば、則ち能く四摂法を具足せん、若し能く四摂 
 法を具足せば、則ち衆生に無量の利を与えん。」
 
 〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.293

ここで菩薩が具足する四摂法(四摂事)について、水野弘元先生の解説が詳しいので、参考として挙げたい。

 「在家・出家の仏教者が実践すべきものとして四摂事(または四摂法)と
 いうものが説かれている。四摂事とは布施・愛語・利行・同時の四つであ
 って、布施は施を行う実践的行為であり、愛語は親切な慈愛のこもった言
 葉をかけることである。〔中略〕利行とは相手の利益になる行為をなすこ
 とであり、自己中心の考えを去って、常に相手の立場を考え、相互の、ま
 た全体の幸福利益のために行動することである。同時とはさらに自他を同
 視することである。」

水野弘元,『仏教の基礎知識』,春秋社,2009,pp.225-226

そして、前半部の最後に、これらの段階的に身に着ける、菩薩としての資質は、”信”のみならず、”海印三昧”や、”華厳三昧”といった、”三昧”によって裏打ちされている点が示されるのである。

”三昧”についても、『大智度論』での解説を確認してみたい。

 「四つの根本禅(四禅)を除き、〔中略〕瞑想をすべて定といい、また三
 昧と名付ける〔中略〕それら以外の精神集中も定と呼んだり、三昧と呼ん
 だりする」


梶山雄一・赤松明彦訳,『大乗仏典 ー中国・日本編 第1巻』,中央公論社,1989,p.89

特にこの「賢首菩薩品」では、”海印三昧”・”華厳三昧”と呼ばれる”三昧”なのだが、その三昧については、 訳者の衞藤即應先生の解説にその内容が記られている。

 「海の風浪(ママ)息みて静かなる時に、天体万象悉く海面に印現するが
 如く、無明煩悩の風波を滅したる清浄の心海の中には〔中略〕皆悉く炳現
 するなり。之を海印三昧という。」
 
 〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕


  『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.297

 「華厳とは、因行の華を以って仏果を厳る義。萬行を修して法界を厳飾
 し、法身の妙華を成ずる定心を華厳三昧という。」

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.298

正直、体験したことのないため、推測の域を出ないが、おそらく、心乱れることなく、出会う事象をそのままに、足すことなく、減らすことなく、心に受け止めるということが、”海印三昧”であり、あらゆる行を基に、外界の事象に乱されることの無い定心を得ることが、”華厳三昧”ということなのであろうか。

そして、「賢首菩薩品」の後半部では、この三昧についての様子が、光・色(華・宝石・珠)・音・香り・雨など様々な方向から語られるのだが・・・残念ながら、三昧を体験したことの無い身としては、文字面を追うばかりである。

それでも、賢首菩薩の次の言葉を心に留め、道をさらに進めたいと思う。

 「〔前略〕常に清浄にして、真実なる行を楽(ねが)えよ。」

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.331



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