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詩を書こう

「詩を書こう」

先日引っ張り出した祖母の詩集をみて
ふとそんなことを思った。
昔なにやらそれらしきものを書いていた。
もしかしたら祖母に似た感性を
持っているのではないか?
なんて思ったこともある。

祖母は有名な著者でも画家でもないけれど、
詩の会に所属し、書道や絵画、
パッチワーク趣味多才だった。

性格にはなかなかの癖もあったが、
そんな多才な祖母に憧れもあり
その才に似たものがあると思えたのは
うれしかった(思うのは勝手)。

それはともかく、詩とはなんだ?

詩というのは「こういうものだ」
と教わったことがあっただろうか。

なぁに、調べてみればいい

「詩」
自然や人事などから受ける感興。
感動をリズムを持つ言語形式で表現したもの。
押韻、韻律、字数などに規定のある定型詩と
それのない自由詩、散文詩とがあり、
また内容から叙情詩、叙事詩、劇詩などにわける。

ちなみに「ポエム」
一編の詩。韻文作品。詩的な文章。
詩的だが中身のない文章、
発言を揶揄していうこともある。

「揶揄していうこともある。」
そうなんだ。
そういう意味合いは
あまり感じたことがなかった。

そもそも詩とポエムは
同じものだと認識していた。

少し洒落た気分がポエムと...
あぁ、これか、中身のない...
いや中身のないことはないだろう
言葉があるのだから。

大切なのは「感興」
感じたことを表現するということ。

その表現方法は音かもしれないし、
絵かもしれないし、言葉かもしれない。

言葉の表現の一つに
「詩」というものがあるということであって
何か特別にこだわることもないのだろう。

規定に沿う、要はゲームであり、
その楽しみ方の一つにすぎない。
挑戦したくなったら
押韻、韻律、字数を楽しめばいい。

好きな詩集に
谷川俊太郎さんの「世間知らず」がある。
その中でこんな一節がある。

たとえぼくは悲しいと書いてあっても 
そのときぼくが悲しかったわけじゃないのを
ぼくは知っている

夕焼け

ん?なんだこれは?
感興とはちがうのではないか?

ちなみにその前にはこんなことも書いている。

どんな気持ちで書いたのかなんて
教科書みたいなことは考えない
詩を書くときは
詩を書きたいという気持ちしかないからだ

この本と出会ったのが中学生だっただろうか。
なんせ本というものを読めなかった私は
詩が好きだった。

詩が好きだったというよりは
「言葉」「活字」が好きで
本は読み切れないから詩を見ていた、
というだけかもしれない。

おそらく詩の意味なんて
わからなくてもいい。
自己流に思い込んでも
害はないと思っていた節もある。

そして初めて自ら買いに行った本が
この「世間知らず」だった。
この詩集の「世間知らず」と「夕焼け」は
どこか自分の胸に残っていて
時々その一節を思い出す。

そうして今、そんな一節を思い出したのだ。

「詩を書きたい」
その気持ちがあれば
それだけでいいじゃない。

文章もそう。
アウトプットするからには
その言葉を誰かが目にするかもしれない。
でもそこから先は受け取った相手が判断すること。
読みたければ読むし、読みたくなければ読まない。
それだけのこと。

読んで欲しいときは、
相手の求めているものを書く必要があるし、
自分の思いを押し出したところで
読まれることはない。
読むか読まないかは相手の手中なのだから。

学生の頃、
ノートのあちこちに書き留めた
詩らしきもの。
日記は破り捨てたのに、
捨てられずに残っている。

事細かく書いていた日記は
死後見られたら恥ずかしい。
でも詩ならまだ笑えるんじゃないかと
破り捨てた当時思ったのかもしれない。

今見返してみたら、
やはり恥ずかしいものばかりである。

もうすっかり書かなくなった。
そんな節すらも全く現れないし、
書こうという気持ちも
いつの間にか消えていた。

ネットが普及し
ブログを書くようになったからだろうか。

言いたいこと
ツイッターでつぶやけるからだろうか。

なにかそこで
満足できていたのかもしれない。

noteに出会った。
様々なクリエイターさんに出会った。
自分がただ書き綴っていた
ブログにはなかった面白さを感じた。

特段素晴らしいことはできないけれど、
色々な要素が化学反応をおこして
フツフツと沸く何かが
胸の中にあるようだ。

久しぶりの感情に反応した自分。
あまり期待はしないけれど、
これからの自分、
ちょっと楽しみにしてみたいと思う。

2022年12月3日


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