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ドクダミにあやかりたい


4月。今年も自宅の庭のドクダミが本気を出してきた。毎年この時期になると、ムクムクと、湯が沸騰するかの如くドクダミが湧き上がってくる。
あまりの旺盛っぷりに見かねて、昨秋に知り合いの工務店さんにお願いして庭の一部に石を敷いてもらった。これで少しは落ち着くかと思いきや、土の下ではドクダミ勢が今か今かと息を潜めていたらしい。敷石を侵食せんばかりの勢いで、土という土が、ドクダミたちに覆われている。
やっかいだなと怯えつつも、ぷりっとしたハート型の葉や、5月ごろになるとぽつぽつと現れる可憐な白い苞など、かわるがわる様々な表情を見せてくれるドクダミが、結構好きである。

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3月下旬、母から「お父さんの状態が悪いです。病院から身内に連絡を入れて…と」と連絡があった。
歯医者を営んでいた父。4年前に病院を畳んでから、さあようやく趣味に打ち込めるぞという矢先に、動脈瘤と慢性膵炎が発覚。検査をしていくうちに食道がんも発覚した。
仕事を辞める前も含めるとかれこれ10年くらい入退院を繰り返し、体力が徐々に落ちていたところで、食道と胃を切除。母が色々と食事を工夫していたものの、口からの食事はなかなかスムーズにはいかず、体重もガックリと落ちてしまった。
昨年末に実家で会った時には、ほおがこけてげっそり痩せていたのだけど、まだ車に乗って近くまで出かけたり、家の中で趣味の工作に打ち込む余裕はあるようだった。しかし年明けしばらくして、肺の気胸を患い、そこから一気に体調が悪くなり、起きていられない日も増えた。
片方の肺の気胸が治ったと思いきや、もう片方の肺にも気胸ができ、入院。さらに誤嚥性肺炎を患ってしまい、症状がグッと悪化。血圧が低下して呼吸も絶え絶えになり、冒頭の連絡が来たという次第だ。

慌てて実家にとんぼ返りし、父の入院する病院へ行ったところ、人工呼吸器をつけて麻酔で眠る父がいた。ほおがこけて、ほとんど骨と皮だけ。痛ましいくらい何本もの管が身体から周りの機械に伸び、父の生命をようやく維持している。布団をちらりと剥いでみると、手と足は木の棒のようだった。足は、脊椎狭窄症を患った影響で、歩くのに苦労したためかボコボコ歪な形をして、触るとひんやり冷たかった。
年末に会った時とは比べものにならない姿にショックを受けた。

父は、幼い頃から工作少年。歯医者の仕事が終わった後は毎日まっすぐ家に帰り、夜な夜な明け方近くまで工作に没頭していた。ダイニングテーブルに図面と何やら分からぬパーツや機械を広げて、焼酎を飲む姿というのが、真っ先に思い出す父の姿だ。
家族に対しても「嬉しい」「悲しい」といった自分の気持ちをまっすぐ周りに話すというよりは、「もの」や「世の中の情報」など、何か一つフィルターを通して周りとのコミュニケーションを取るところがあった。
それは私にも受け継がれているのを痛感している。特に口頭で、自分の本当の胸の内をスムーズに周りの人に開示するのは歳を重ねた今でも難しいし、人と直に接する時は、いつもちょっと緊張してしまう。

父も娘もそんなふうに、人付き合いに不器用なので、悩み相談はおろか、特にしょっしゅう連絡を取っていたわけでもなかった。
ただ、Facebookでは一応「友達」になっていて、父が時々投稿する謎めいた工作や各種DIYの写真に「いいね」をし、父からも時々私の投稿に「いいね」をする。そんな関係だ。
ベッタリしているわけではないが、私の仕事や趣味の活動はうっすらと応援してくれている父。私が新聞で取材いただいた時は、「よかったら読んでください」なんて投稿もしてくれた。
骨と皮だけになり各種の管につながれ、息絶え絶えの様子には、思わず涙をこらえることができなかった。

その後、3月末と4月頭に再び帰省。
途中再び血圧と呼吸がグッと落ち、病院から「早く来てください」と呼び出され、いよいよかと覚悟した。病院へ急いで向かう道中、父の容態が気がかりなのもさることながら、「えっ、もし亡くなったら何をしなきゃいけないんだっけ」とパニックにもなった。いざとなった時に慌てないよう、母と死後必要となる諸々の手続きを確認して、葬儀のプランを決め、黒いストッキングも買い、病院に死亡診断書をコピーできるコピー機があるかどうかまで確かめた。

幸い病院の処置により一命を取り留め、後ろ指を引かれながら実家を後にした。母からの連絡では、その後アップダウンを繰り返しながらなんとかかんとか容態は持ち直し、血圧も少しずつ安定してきたとのこと。麻酔が取れて気管切開をして人工呼吸器を喉からのタイプに切り替え、意識も回復した。しかし相変わらず呼吸器は付けているので喋れない。

今は、何かあればノートに要件を書いて、周りに伝える必要がある。最初は何を書いているのかわからなかったが、ようやく周りも判別できる文字を書けるようになってきたようだ。
しかし、様々な要求にまじって、「タクシー」「いますぐ」「ベッドの柵を降ろして窓から出る」とかいうことも綴っているらしい。面会以外の時間は基本的に手に重りがついて拘束されており、自由に手を動かせない。
今すぐにでも病院を出て、自宅に戻りたいのだろう。
昨日からようやくスマホを病室に持ち込んだそうだが、母に何度も、声のない電話がかかってくるそうだ。何を求めてかはわからないが、声を聞くと安心できるかも、と、母は声のない電話に向かって話しかけている。


意識はあるものの身体が思うように動かない、周りに自分の言いたいことが伝わらない、という辛さはどれほどだろうと思う。
これまで周りにほとんど弱みを見せなかった父だが、さすがに今の状態はこたえているのだろうなというのが、母からの連絡越しに伝わってくる。
九州男子で家事は一切やらなかった父。元気な時も病気になってからも、母が細々と身の回りのことをやってきた。私から見たらそこまでべったりとした関係性ではなかったものの、今の父にとって、ノートと携帯電話を通した母とのやり取りが、生きるよすが。最後のライフラインなのだろう。必死で助けを求めている様子に胸が痛くなる。

仮に少し状態がよくなり自宅に戻ってこれたとしても、やはり身体と酸素ボンベや栄養剤をつなぎ、フルでプロの手を借りて訪問介護や訪問診療を行わないと生きながらえないのは目に見えている。生死のはざまを何度も行き来している状態だが、それでも「帰りたい」という思いが、今の父の最後の生きるエネルギーになっているのではと思う。

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4月になり、隙間の緑もむくむくと存在感を増してきた。
父のことがあり落ち着かない日々を探しているからこそ、街角の隙間という環境でしぶとく生命をつなぐ植物たちの姿を見守っていると、ことさら前向きな気持ちになれる。
我が家のドクダミの生命力と、私の体重(10キロ分くらい)を父に分けてあげれたら良いものだが。





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