見出し画像

わかった気にならない

ご縁ありここ3年ほど、デザイナーの藤田泰実さんと共にSABOTENSで、東北芸術工科大学という美大の、新一年生向けの講義を担当させていただいている。今年も、桜で彩られた春の山形へ行ってきた。

表現やデザインといった技術面というよりは、その手前部分。これからデザインを学ぶ一年生向けの、発見や観察を促す授業だ。
今回は全2回の講義で、校舎の裏手にある丘へ出向き、そこで各自採集した落ち葉や枝、小石などをじっくり観察し、発見したものをチームごとにA3大の紙の上で表してみよう、というお題を出した。
初回は「どうすればいいんだ…?」とウンウン悩んでいる様子だったが(拾ってきた木の幹を机に広げたら、ありんこが大量発生するというプチ事件も🐜)、2回目の授業ではチームごとに考え抜かれた多種多様な作品が集まり「おおー」と驚いた。

ものを見るというのは難しい。
例えば、葉っぱ。葉っぱとひとくちに言っても、丸い形、手のひらみたいな形、細長い形など、さまざまな姿形をしている。
また、色を見ても、常緑樹の葉っぱは表面がつるつるとして濃い緑だが、落葉樹の葉っぱは、もっと触り心地がふわっと柔らかく、つやも少ない。
虫に食われて穴ぼこが開いていたり、踏まれてぺったりしていたり。落ちている葉っぱだって、落ちたばかりの状態から時間が経つにつれて朽ちていくにつれ、様子は変化していく。落ちた理由だってさまざまだろう。
触ってみると、ざらざらしたものやつるつるすべすべしたものなど、手で感じる感触は違う。
目や手以外にも、耳で感じる音や鼻腔をかすめる匂いなど、一枚の「その葉っぱ」には、唯一無二かつ膨大な情報が潜んでいる。

それを「ああ、葉っぱだね」で片付けてしまうと、そうした五感で得た微細なものは無視されてしまう。
観察の第一歩は、とにかく脳内にはびこる固定概念や言葉といったものから自分自身を解き放ち、初めてそれを目にした宇宙人のような気持ちで、目の前の具体的な「あるもの」に興味を持って向き合う、という態度が大事なのだろう。
多分、効率よく情報を取捨選択して、それらしき答えに辿り着く受験勉強的なプロセスとは相反する。

言葉にしたり、ありものの概念に当てはめたりすることで、また見えてくるものもある。
しかし、自分の頭で思いつく範囲の言葉や概念、あるいは分かりやすいストーリーに当てこんでしまうことで、取りこぼしてしまうものは大きい。
それは人に対しても同じかも。

いま自分が立つ半径5メートルにあるものだって、実は謎だらけなのだ。その一端にでも気づくと、周りの世界がだいぶ豊かに思えてくるのではないだろうか。

分かった気になるな、自分よ。
自分自身にも言い聞かせたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?