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ある時からふと文章が書けなくなったはなし

中学時代からずっと小説を書いたり文字を書いてきたりした人間が、ある時からふと文章が書けなくなってきてしまった、という話をします。

たぶん私にとって、文章を書くことはゲロを吐くのと同じなんだと思います。


文章、それは想像を描くキャンバス

私は、昔から筆記用具が好きでした。
特にボールペンが好きでした。
大人が使っている80円くらいの三菱のキャップ付きボールペン。
それをもらって触っているだけで、自分も大人の仲間入りをしたような、そんな気分になっていました。


引用:https://www.monotaro.com/

そして、私は幼少期は絵を描くことが好きでした。
幼稚園の頃は、「がんばったで賞」などという全員もらえるような賞をもらい、周りの大人からも褒められて、自分は絵が上手いと錯覚したものです。
小学校に入り、周りの児童の絵を鑑賞するようになってから、自分の絵は実は大したことなかったのだと自覚し、肩を落とした記憶があります。

私にとって、絵は1つの自己表現でした。
頭の中で思い描いた世界を現実に起こす作業……
自分の見たものや感じたものを記憶に留める作業……
そのための手段が、きっと当時の私にとっては絵だったのでしょう。
しかし、他者の目を意識するようになり、比較するようになってから、私は絵を描くことのを憚るようになりました。

そして、私は中学生になり、物語を書くようになりました。
当時、私の周りでは二次創作が流行っており、自分たちでも二次創作を作ったり公開したりしよう、という流れができました。
(オタクがよくやるやつです)
そこで、私も二次創作で小説を書き始めるようになりました。

私が表現の媒体として小説を選んだのは、
「小説であれば何でも書くことができる」
という漠然とした考えがあったからでした。

「ゆっくり茶◯劇」のような紙芝居もやってはみましたが、あれでは映像の中でしか全てを表現できません。
映像は、そこに映されたものしか表現できません。
さらにいえば、紙芝居的な動画であれば、その素材がなければ、そもそもの映像すら作れません。
しかし、小説であれば、想像力と文章力があれば、自分の想像を形にすることができます。
そのため、私は表現の媒体として小説を選び、小説を書くようになりました。

しかし、小説、もとい文章を、段々あまり書けなくなってしまいました。

どうして書けなくなってしまったのだろう

……といっても、それでも文章を書く機会がなくなったわけではありません。むしろ書く機会は増えていました。
高校の文芸部、大学のレポート、ひょんなことから始めたブログ活動……
書く場所と機会には、嫌というほど恵まれていました。

ブログを書いていた頃はこんな感じでやっていました

それでも、自分の中で「書けなくなったなぁ」という漠然とした意識が湧いていたのです。
文章を書いても、「なんか違う」という意識が湧いてくる。
文章を書いても、書いては消してを繰り返してしまう。
1日長い時間を書けても、書けたのはたった1行なんてざら。
そんな状況がそれなりにあったわけです。
(集中力がもとからなかったのもありますが)

それこそかつての自分は、「なんか違うなぁ」という意識はあれど、それでも文字を紡ぐことが容易にできました。
しかし、段々書けなくなっていく自分がいる、そんな意識が私の中にありました。

今も文章を書くことには苦心します。
というのも、大学2年の時にnoteを開設してからというもの、3日坊主すら満たない、2投稿でnoteの更新を終えてしまいましたからね。

しかし、文章を書くことから少し離れている間に、私が文章を書けなくなった理由がなんとなく分かった気がします。
それは、

  • 想像力が失われつつあること

  • 他者の目を”異常に”気にしてしまうこと

の2つであると私は考えます。

スマートフォンやインターネットの普及により、少しでも暇があれば、その暇を潰すコンテンツを提供してくれる社会。
そして、孤独を紛らわすため、人と常に繋がれる環境が生まれた社会。
人間が想像をする時間というのは、手持ち無沙汰な時間、暇な時間が多いのではないでしょうか。その時間がなくなるということは、何かを紡いだり生み出したりする原動力? もしくは種? を失うことに他なりません。

私自身、ここ数年はスキマ時間があればSNSや動画を見る機会が増えました。また、移動手段に車を使うなどし、少しでも「無駄な時間」をなくす努力をしてきたように思えます。
しかし、そのような無駄な時間にこそ、本当の価値というものがあるのかもしれません。

人と常に繋がり続ける社会にいた、というのも、文字が書けなくなった要因であるように考えます。
アリストテレスが人間のことを「社会的動物」と呼んだように、人は常に人と関わって生きていく動物です。しかし、それが過剰になってしまうと、どうしても人の目がストレスになり、それに敏感になってしまいます。人は「社会的動物」であるからこそ、その「社会」から外れないように、「社会」に適用しようと、人を見て振る舞うようになるのです。

想像したものを外に出すというのは、ある意味自分の自己開示とも言えるものです。
人を意識し続けていたら、自己開示は少しずつ難しくなっていくのかもわかりません。

……まあ、ここまでのことは全部、このような社会に甘んじて、自分を振り返ることをしてこなかった自分の責任であるように思えますが……

想像を形にする、即ちゲロを吐く

なんてことを言いながらも、私は今、こうしてnoteというもので言葉を紡いでいます。
そして、noteでなくても、TwitterなどのSNSを用いて、私の考えや思いを言葉にして発信し続けているつもりです。
また、私の中での想像は、形を変えて今も続いている……ような気がします。
例えば、数年前から始めたカメラとか。

α6400 + sigma 18-50mm dc dn

結局のところ、なんだかんだ言いつつも、私は今も想像をもとに、創作を続けている気がします。
でも、想像する機会が減ったとはいえ、僅かながら生まれた想像を形にするのはやめられないのです。気持ちがいいから。
想像はゲロです。それを形にすることは、ゲロを吐くことと同義なのです。
ゲロって吐いたら楽になりますよね、気持ちよくなりますよね。
想像も、きっと同じだと思うのです。

人は、なんだかんだでこれの繰り返しだと思います。
歴史を振り返ると、人は随所随所で文化をつくっているのがわかります。
文化は生活を豊かにしますが、そんな文化も想像から生まれています。

私が嗜んでいる(?)能楽は、まさに想像を重要視する芸能です。
少ない舞台装置と共通した舞台の中で、演者は僅かな所作と謡で演目の世界観を表現します。
演者は、顔の僅かな傾きにも細心の注意をはらいます。
顔を傾けることは、役の表情や心情を表現する大事な演技の1つです。

引用:wikipedia

私が昔読んだ小説、入間人間『バカが全裸でやってくる』にて、こんな台詞がありました。

「だって小説って一字一句、作者の妄想から生まれたものですよ。隠しようがない心の奥にある、現実への不満、理想の世界をぶちまけているわけです。赤裸々な告白大会ですよ」

入間人間『バカが全裸でやってくる』メディアワークス文庫

私たちが何気なくする想像は、心の奥にある本当の感情が形になったものなのかもしれません。そして、想像を形にすることは、自分の中のなにかを、理想を吐露することになるのでしょう。

しかし、想像を形にすること、自分の中のなにかを吐露することは、まるで酔っ払いがゲロを吐いた後に爽快感を感じるように、気持ちのよいことではないのでしょうか。
(これって例えとして適切なのかな)

想像は、想像を形にすることは、気持ちがいい。

だから、私は文章が思うように書けなくなっても、公開する場所や媒体を変えながら、なんらかの形で、想像を続けているのだと思います。



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