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檜垣立哉『ベルクソンの哲学』読んだ

檜垣立哉氏は日本におけるベルクソン研究の第一人者であるらしい。

この本は2000年ころに出版されたものである。そもそもベルクソンは、1960年代にジル・ドゥルーズが取り上げるまで忘れ去られた哲学者であり、またドゥルーズが取り上げたと行っても難解な彼の思索が理解されるのに時間がかかり、1990年代になってベルクソンはようやく日本でも取り扱われるようになったという時代背景なのである。このへんの事情は末尾に収録された、杉山直樹氏の解説に詳しい。

本書は昨年に文庫版が出版されベルクソンブームの一翼を担うことになったのであった。

ドゥルーズの理解に沿ってベルクソンの哲学を解説したものなのだが、あまり初心者向けとはいえず、まあまあ苦労した。

ベルクソンが忘却されたのは、現象学の超越論的還元があまりにも魅力的だったためだ。あくまで内在的に主観や知覚をとらえようとするベルクソンは時代遅れと思われたのである。

現象学の方法論を深化させたのがデリダやレヴィナスであるとするなら、それとは別のやり方で思考を組み立てたのがドゥルーズやフーコーであった。

内在的であるとは、動的な流れにおける差異をとらえ、そしてその分節化を統合していくような方法論である。外部を想定しないベルクソンの発想は、他者性の欠如として批判の的にもなったが、実在に即して、あるいは実在をとことん肯定するオプティミズムはニーチェのようでもありスリリングである。

ベルクソンにおける本性的差異とは、空間と時間の差異である。時間とは持続的なものを示し、空間は持続に反するもの全般である。これらは記憶と知覚、生命的なものと幾何学的なもの、などの二分法に対応している。

しかしこの二分法は、一元論への志向を最初からはらんでいる。いささか唐突な、差異から統合への転換は私にはやや難しかったが、ドゥルーズや著者にとっては整合的であるらしい。

ここまでが序章で、第1章で取り上げるのはベルクソンの主著のひとつ『試論』で、2種類の量の区別から始まる。外延的なものと強度的なものである。これは言うまでもなく空間的、時間的の二元論に対応している。

前者は空間的な広がりにおいて定位されるので測定可能である。
後者は空間的な足し合わせが不可能なので明確に測定できない。例えば、感覚や感情などである。

2種類の「量」といったが、これは量と質と言い換えるべきであろう。実際には、質が定量的に把握できるかのような錯覚が蔓延しているが。

質と量の存在様態は根本的に異なるが、質において多数の要素がわかちがたく存在していることは否定できない。
旋律には多数の音が含まれているが、それらを切り離すと意味をなさないように。メロディは持続的な流れとして捉えられなければならず、分割して足し上げるような性質のものではない。

量的なもの、外延的なものは分割しうるだろう。お望みなら無限に分割することも可能である。そう、ゼノンのパラドックスのように。
アキレスと亀との距離は無限に分割できるがゆえに、アキレスが亀に追いつくことは一生ないように思われる。

実際にはアキレスが亀をやすやすと追い越すであろうが、それはこの世界は分割可能な空間ではなく、持続的な流れだからだ。流れを断片的に捉えている限りは、アキレスが亀に追いつきはしないのだ。

こうして量は、空間、相互外在性、等質性、現実性、客観性であり、質は、時間、相互浸透性、異質性、潜在性m主観性にかかわることが了解されるであろう。

質が時間と結びつくのは、存在が一度に与えられないから、例えばメロディは通過するのを待たなくてはならない。これに対しては空間は一瞬で全て表象される。

ここで、時間だって一本の線で表現できるし、なんならストップウォッチで測れるやんという疑問をもつ向きもあるかもしれない。

しかし計測された秒数であるとか、線で表した長さとかは、持続でないものである。持続である時間を、持続でないものを用いて論じるのは誤謬であるとベルクソンは退ける。

持続でない空間は、持続の瞬間的な断面として表現することはできても、断面が持続を構成することはありえない。ゼノンのパラドックスが示すのはこの不可能性である。

全ての行為は持続において把握されなければならない。行為が持続の中で生じつつある、、、という点に自由が見出されるのではないか。必然性でも可能性でもない、予見不可能な自己産出として自由な行為は意味づけられるのではないか。

現実世界はまだまだ複雑で、物理学的な決定論ではなく、予見不可能性にみちている。そこに意識や自由が生じる余地がある。

持続とは自己根拠的な自由である。自己根拠的であるとは絶対的な肯定だ。


第2章は『物質と記憶』。

イマージュは心理的概念でも物理的概念でもない。それは、観念論者が主張する「表象」と、(唯物論的、素朴科学論的な)実在論者が主張する「事物」との「中間」( mi-chemin)に位置するものである

まず知覚は、知覚される世界、知覚する私、知覚装置である身体の三層に分けられるだろう。いずれかを極端に推し進めれば、素朴な実在論か、独我論か、たんなる物質へといきつくだろう。したがって常識的に考えて、これらの中間的ななにかとしてイマージュをとらえるほかない。

つまり世界はイマージュの総体、身体は知覚のための媒介としてのイマージュ、私は身体イマージュの不確定な中心として捉えられる。
知覚は、私である身体が、物質的世界の総体を分節していくイマージュ相互の作用とみなされる。

たんなる物質ではなく、イマージュである身体は、決定論的な連鎖反応ではなく、なんらかのゆらぎや偏りをもって作用するだろう。

この不確実性の中心こそ、主観である。主観を象徴するのは脳であり、人間の複雑な脳がもたらす反応は、未分化な生物に比べると不確定性にみちみちている。

しかしこれだけでは、分子生物学や情報工学が発展すれば、要素還元的に予測可能になるわけで、質的に異なっているとはいいがたい。

そこで時間的な遅延を導入する。反応の遅延に、ベルクソンは主観の不確定性を見出すのである。脳や神経が介在する限り遅延は必ず発生する。

情感についての記述はよくわからんので割愛。

そして記憶の出番である。

記憶は純粋知覚のそばに控えており、知覚と記憶とを一部に把握させて、主観的な認識を再構成する。過去と現在を一つに収縮させる働きは、記憶の重要な機能である。

ここで記憶を2つに分類する。

一つの類型は身体的に組み込まれている。無意識に瞬時に反応する系である。基本的な状況認識において、いちいち過去の記憶を引っ張り出してきたりはしないだろう。
このタイプの記憶に伴う認識では、瞬間的なので明確な記憶の介入がない。個別のイマージュが喚起されることはない。そもそも個々のエピソードの集積ではないのである。

いま一つは、与えられる対象と連関する過去を記憶の中に探しにいって、
そこから認識を構成する。個別的な記憶のイマージュである。この型の記憶がともなう認識においては、記憶の関与が強く意識されるだろう。

現在において知覚するとき、記憶の総体はそばに控えている。あるいは個別的な記憶イマージュが現在に投射されるわけで、現在性を帯びるはずである。あるメロディの流れていった音が現在にまで保持されていなければ、この瞬間に流れている音は意味をなさない。

ベルクソンは過去はすべて残存すると考えており、これを純粋記憶という。これは個別の記憶イマージュの集積とは質的に異なる。個別の音素がメロディーを構成するのではなく、流れていった音たちを相対的にとらえなければ意味がない、みたいなイメージか。

現在と過去(純粋記憶)はなにが違うか。現在という位相にあっては、感覚運動系が作用をなしうるだろう。だがそのような現在も経験された瞬間から純粋記憶へと回収されていくだろう。

記憶の総体は円錐のようなもので、現在は円錐の先端である。現在がそのような点であったり、あるいは厚みを持たない断面のようなものなら、現在は存在しないともいいうる。というかベルクソンは現在は存在しないといったらしい。

持続の流れこそが実在であるならば、現在が存在するとはいえない。たんに生成しつつあるものだ。

現在が流れの断面であるかぎり、それは想定されるだけの境界にすぎないだろう(中略) だから現実的な知覚を考えるとしても、それが遂行されるのはほとんど過去においてである。つまり知覚される実在とは、感覚運動的な現在が支配するものというよりは、むしろ記憶の領域において、その潜在性の働きにより語られるべきものなのである。

現在と、記憶としての過去を二元論的に差異化してきたが、最終的にはこれらを統合する方向へ議論は展開する、、、のだがよくわからんので割愛。


記憶の収縮には程度の差がある。単調な反復であれば弛緩しているし、創造的であったり予見不可能性が高ければ緊張しているということになる。

弛緩しきって、すべてが予見可能となったはてに客観性や必然性はあるだろう。

逆に緊張している状態を自由とみなせる。

このような収縮のリズムとして持続の流れをとらえるのは、なかなか面白いが、『物質と記憶』では持続の未来への方向性は示されていない。過去の反復との緊張関係だけでとらえるのは不十分と著者は論じるのであった。

第3章は『創造的進化』をとりあげているのだが、それなりに分子生物学を学んだ者としては面白いと思えなかった。

第4章は『持続性と同時性』であるが、相対性理論をちゃんと理解していないせいかついていけなかった。

てか疲れ果ててちゃんと読めてないだけかも。最近、爆速で読書しているのでときどき雑い読み方をしてしまう。

でもこの本はまた読むことになるだろうからいいことにしよう。


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