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山内志朗『中世哲学入門』読んだ

ぜんぜん入門書じゃない入門書。むりやり2回読んだ。

今年の初夏にラテン語の勉強を再開したとき、ちょうどよいタイミングで山内志朗先生のシラスのチャンネル『ラテン語が一瞬で身につく夢の哲学チャンネル』略して夢ラテが始まったのである。

私は山内先生はお名前しか存じ上げなかったのだが、朴訥とした語り口に一瞬で魅せられてしまい、そのときちょうど発売された『中世哲学入門』を購入したのである。

しかし日本語で書いてあるのに全く意味がわからず、どこが入門なんだと途方に暮れたのである。というか著者もしょっちゅう途方に暮れているのであるが、、、

普通に中世哲学の入門書を読みたいなら『中世の覚醒』がおすすめである。

『中世哲学入門』は入門どころか、門の前で右往左往している感じだ。

そもそも中世哲学は用語が独特である。ギリシャ語をアラビア語に訳してそれをラテン語に訳している時点でよくわからなかったり、あるいはそれまでになかった概念を発明して言葉を作ったりしている。

それらの多くは、近世以降には失われてしまい、現代人には意味不明となっている。それをさらに日本語に訳すのはちょっと、、、

だが山内先生ほか、日本の中世哲学研究者は、ラテン語で嫁、などとは言わずに一生懸命に訳語をあててきたのである。

そういうわけで本書では、用語の説明に多くの頁が割かれている。

第一志向、第二志向、可感的形象、可知的形象、同時的全体、離接的様態、端的に単純、本体述語、仮現的存在、縮小的存在、対象的概念、、、

一番よくわからないのは山内先生の造語である「理虚的存在」だった。Ens rationisのどこに「虚」という文字が入り込むのかわからなかった。たぶん理性ないし知性によって創造(妄想?)されたものも含めた存在ということなのではないかと思われる。

このように、対象と、対象を認識する作用(思惟作用、知解作用)の差異が、言葉の上でどのように表現されうるかについて異常に煩瑣であるのが、スコラ学であるらしいということがわかった。

極東の現代人である私には想像するほかないのだが、神=救済者と直接的につながりたいセカイ系的な欲求という、現実的要請により異常に煩瑣になっていったのではないだろうか。

神と人間は存在において共通なる本性があるのか?神について人は認識できるのか?神が認識するものを人も認識しうるとしたらどのようにしてか?
そもそも人は神の絶対的能力に近づくことすらできないのではないか?もしそうなら現世において人はなにをなすべきなのか?

そのような事情を斟酌しないならば、本書で取り上げられる、普遍論争、存在偶有性説、存在の一義性、個体化論、代示の理論などは、なんでそんなことにこだわるのか全くわからない。

いや斟酌したとしても意味不明なのだが、それでも存在の一義性とは、存在について本質を極めていけば、全てが無限かつ潜在的に包含される根源的な存在の海にたどり着けるのではないか、という欲望については著者のあとがきを読んでわかった気がする。
存在が先か、本質が先かなどという議論は、究極の一を目指すのでなければこだわる意味はないだろう。

とはいえ近代にもつながる論点もいくつかあったので触れておく。

ギャップはあるものの、個体化論は近代の個人主義につながっていそう。
個体とは述語にならないものと規定されるが、言語哲学でいうところの固有名は確定記述の束に置き換えられない、とほぼ同じ意味だろう。
反対に普遍とは、複数のものの述語になることを妨げられないものである。これは偶有性が個体化の原理にはなりえないのと同じことと思われる。偶有性とは、ほかでもありえた、ってことだからね。

個体であること、つまり「このもの性」はあらゆる偶有性に先行的に随伴する、、、らしい。近代的な意味での個であることは、どちらかというと偶有性をかけがえのなさと捉えることで成り立っているように思われた。


それと認識論的転回について。山内先生によると、それは13世紀にすでに始まっていたらしい。

アリストテレスやトマスにおいては、因果的に媒介された過程を重視した。その過程を追求することが認識過程の説明となる。感覚的なものから知性的なものへの移行において必ず生じる落差をどうにかして説明しようとしていた。

つまり可感的形象から可知的形象へと変わっていく知性の作用について説明しようとしていた。

しかしこのような古い認識論的枠組みは、イスラームから入ってきた光学とはとても相性が悪かったらしい。光(媒介)そのものが認識を形作っている面が非常に大きく、感覚的なものから認識へのギャップを知性の作用だけで説明しようとする古い認識論はあわなかったのだ。

媒介作用そのものが独立的に、それ自体として重要なのではないかと。さらに推し進めれば、それは対象から切り離されていても、あるいはそもそも非存在であっても、直観的認識として成立していれば、絶対的存在と認めるべきなのではないかと、どうもそういう感じになっていったらしい。

そのような論を立てたのが、光学に異常な関心を持っていたことで知られるフランシスコ会のメンバーであるところの、スコトゥスやオッカムだったのである。

認識しえたものしか知り得ないし、語り得ないという、今風な認識論にかなり接近しているように思われる。

このような認識論は、中世にあっては、神聖な領域を侵犯しないという意味でとても良かったのだろう。だが歴史の教科書的には、信仰から独立して科学を追求できるという、いわゆる信仰と理性の分離につながったということだ。あるいは宗教改革を準備した、ということになろう。

この教科書的な理解は間違ってはいないだろうが、本書を読む限りではそう単純な話ではなさそうである。いや単純なのかもしれないが。

トマスとかスコトゥスとか、彼らの思考の過程を丁寧に追わないとそこらへんはわからないのだが、どう考えても私には荷が重すぎる。でも先人の辿った道を自分も行ってみたいという欲望はある。

自然科学的な意味での認識能力を大きく制限されていた時代の人々が、どのようにして認識の枠組みを広げていったのか。それを知ることに価値があるような気がする。だって我々にだってこの世界はわからないことだらけなのだから。



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