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山本七平『空気の研究』読んだ

日本における空気支配についての有名な著作、いまごろ読んだ。

空気支配について有名な例は、戦艦大和による海上特攻であろう。制空権も十分な燃料も訓練もなく突っ込んでいったらどうなるか、当時の幕僚たちは百も承知であったろうが決行され、多くの命と艦艇、技術の粋を尽くした戦艦大和が失われた。
これについて戦後、当時軍令部次長であった小沢治三郎は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う」と述べた。

こういう非合理が今も昔も日本ではまかり通ってきたわけである。

山本七平氏は、欧米には絶対的な神の前ではすべてが相対化されるが、日本ではそうはゆかず、ある事象が絶対化されるとそれに逆らえない空気が生じるのだと説明している。

そうすると一神教において偶像崇拝が徹底的に禁じられるのも理にかなっているように思われる。偶像が物神化され、それが空気を生ぜしめるからである。

絶対的な一者がいない我が国では、なにかが絶対化されるとそれ以外は従うほかなくなるのである。しかしそのなにかも、きっかけがあればその他大勢で同じ地位に落っこちてしまう。戦前から戦後への突然の価値観の変化がその例である。

あるいは天皇の人間宣言もそうである。戦前に天皇が現人神であるとは、天皇も政府も言ってない。勝手にそういう空気になっただけである。であるにもかかわらず、天皇は人間ですよ自分で言わなくてはならなかったのだ。つい最近も似たようなことがあったね、政府はマスク着用を強制していないのに、わざわざマスクは任意ですよと言わなくてはならなかったのである。

これは中国の儒教とも異なっている。
儒教において忠と孝は別物であり、別物だから違う名前になっている。忠を尽くす相手は選ぶことができるのであり、だから孔子は良きご主人さまを求めてさすらったのだ。
しかし孝は血の繋がりであるから選べない。

日本の儒教ではこの境が曖昧で、親子の血の繋がりが重視されていない。そして忠義を尽くす相手は選べない。このことは支配的な空気が確立されると、抵抗し難くなる風潮と無関係とは思われない。

時代ごとに移り変わる情況を、固定的な倫理あるいは現実と思い込んで、それに適応するのが賢明な生き方だとされる。まあそれは否定しないし、適応的な生き方をしないと生き延びられないことがしばしばあるのも事実だろう。

だが、この情況はほかでもありえたという想像力をもたない者の語ることに真実が宿ることはない。

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