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今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』読んだ

最近各方面で絶賛されているこれを読んだのだ。たしかに面白いし、わかりやすい。

オノマトペを手掛かりに言語の成り立ちや習得を考えていく。言語の習得はいわゆる記号接地問題へとつながっていく。つまり身体感覚や経験を欠いたまま言葉を使いこなすことは可能なのかという問題だ。

オノマトペはアイコン的である。つまり表現とそれが意味するものが近しい関係にある。

しかし絵文字や絵のように視覚情報がほぼないので、利用できるツールが少ないために表現できる幅や量が限られている。また、たくさんの情報を詰め込もうとすると長くなってしまう。

オノマトペは身体性を伴っている。しかしかつての言語学の主流の見解では言語は身体性とは無関係とされており、従ってオノマトペは言語とみなされていなかった。

しかし様々な言語に共通して、母音の口の開け方の大きさと、事物の大きさと相関している。子音では、阻害音と共鳴音でイメージされるものが違っており、それも各言語で共通している。だから今では言語に身体性がないとは考えられていない。

オノマトペのような身体性を伴った語彙から、一般語彙が生じると考えられる。その痕跡は各言語にみられるのである。

原初の語彙は使い回されたり、組み合わされたりして様々な語彙が生み出される。新たに作り出すよりも節約したほうが脳のリソースが取られない。

そうして身体感覚から離れていくのである。

最近私はEtymology exploerというアプリで英語の語彙の語源を調べるという遊びをしているので、このことがよくわかるのである。

オノマトペなどの最初の語彙が身体性をもっているのであれば、記号接地問題はある程度は解明できる。

身体性を欠き、計算する頭脳しかもたないAIは別のやり方で記号接地問題を解決しないといけない。

記号接地問題は双方向的である。例えばリアルな犬をイヌと称することが理解できても、イヌという記号からリアルな犬を想起できるとは限らない。

人が言語を習得する際には、双方向性の思考のバイアスが活躍する。これは逆もまた真也と考えてしまう傾向性のことだ。過剰な一般化ともいう。

例えば、単位取得に8割の出席が必要であることは、8割出席すれば単位をもらえるということではない。筆者の1人によるとそういう間違いをする学生は多いらしい。

どうやら人間は他の霊長類に比べて逆もまた真なりと考えるバイアスが強いようだ。しかし帰納的に推論することでサピエンスの子供たちは言葉を学んでいく。その過程でたくさん間違いをする。中には極めて創造的な間違いもあり、それは本書でもたくさん紹介されている。

一部の霊長類は訓練すればリアルな犬をイヌという記号に結びつけることはできる。だが逆のイヌという記号からリアルな犬を想起できない。
人間はイヌという記号からリアルな犬を想起できる。しかし「帰納的推論」によって、イヌから他の四足歩行のケモノも想起してしまうのだ。

間違えたり修正したりを繰り返して子供たちは、言語という壮大な記号の体系を習得していくのである。

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