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稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』読んだ

中世哲学研究者で、カソリックでもある稲垣良典氏(故人)の新書を読んだのだ。

現代において、神とはなんであるかを問う意味とは、、、

人間は知ることを欲する生き物である。この願望は、検証可能な科学的知識だけで満たされるとは、著者は考えないのである。

可知的な領域を超えた知恵、あるいは神秘を対象とするのが形而上学である。人間として善く生きるには、人間とは何かを知ることが不可欠であり、そのための自己認識(自己意識ではない)を手に入れることは形而上学的探求によってのみ可能である、、、らしい。

人間の知性は永遠・無限なるものにまで開かれているから、必然的に最高善としての神への探求に向かうだろうとのことである。


また、信じることは理性の働きによるものであり、信仰と理性を分離しようとしてオッカム以降の思潮を著者は厳しく批判する。

さらに我が国に目を向けて、神とは何かという問いの不在、すなわち信じることと、理性の分離は、真理の切なる探求の不在と重なるのではないかと著者は指摘するのである。

それはさておき、知ることを欲して突き詰めていくとき、自然科学的あるいは社会科学的方法でなにもかもを、知覚ないし測定できるわけではなく、どうやったって形而上学的にならざるをえないのである。

ただし形而上学的方法をもってしても、人間が神とはなにかをは、極めて限定された認識においてしか知りえないだろう。おおむね、神の本質とは存在そのものという程度の認識に到達するのが関の山といったところか。


知ることの究極においては、知る者と知られるものが「一」になる。キリスト教における神はまさしくこの「一」である、ということのようだ。

知恵とはすべての在るものを、何か近接的で特殊な原因に基づいてではなく第一の、全的・普遍的な原因に基づいて理解することであり、言いかえると存在の根源的で徹底した認識であるから、知恵の探求としての形而上学が「神」の探求へと向かう必然は明白だ、と言うべきではないのか。

ただし不可知論者たる私としては、全的・普遍的な原因とか、存在の根源的で徹底した認識とかに強い関心はあるものの、それを神と結びつける必然性があるとは思われないのであった。

ただし存在の第一根源としての「神」を前提するなら、存在の肯定(この花はきれいだとかその程度の肯定も含む)は暗黙のうちに神の認識を含んでいるのではないか?という著者の説得は理解できなくはない。

一なるものとしての神というとき、その一は単なる数字の一でないのはもちろんのこと、唯一無二という意味での一でもない。同一の一が一番近いみたいだ。

ここらへんまではどうにか理解できたが、神における3つのペルソナの区別は神の「一」性を排除するものではない、との主張にはどうしてもついていけない。

神が一なるものであり、他でも多でもありえないのなら、キリストが神であるわけがないと思うのだが、、、神の「一」なることは三位一体なる神という信仰の神秘を知的に探求することによってのみ明瞭に示すことができるらしい。。。

神が一であるなら、キリストの神性を否定するほかないと私などは思ってしまうが、それは幼稚な誤解らしい。

あるいは神がそのときどきによってキリストだったり聖霊だったりの形をとるいわゆる様態主義とかサベリアニズムとかもきっぱり否定されるのであった。

さらにここからキリストがいかに重要かが語られるのだが、残念ながらほぼ理解できなかった。神が「一」なるものであることと、キリストが神であることがどのように両立するのかわからないからである。

もっともニケイア公会議以前から議論されているこの問題を理解できないのは私の不勉強のせい、、、ということにしておこう。



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