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阿川尚之『憲法で読むアメリカ史』読了

憲法シリーズである。

公衆衛生と個人の自由は鋭く対立する。それは個人の自由を保証する憲法との対立でもある。

そして自由といえばアメリカである。だから公衆衛生を学ぶためにはアメリカの憲法を知ることが重要であると思われ、本書を購入した。

まず1787年のフィラデルフィアでの憲法制定会議から始まる。以前の連合規約のなにが不都合で、新たな憲法が必要とされたかなど基本的なことから解説してくれるのがありがたい。

初期アメリカの用語で気をつけなくてはいけないのが、Federalism(連邦主義)である。通常この言葉は、州の権限を尊重する州権主義(Statism)とほぼ同じ意味であるが、しかしFederalist(連邦主義者、連邦党)というとき、連邦政府の権限を強化したい人々のことになる。これは前から意味がよくわからなかったのだがこれを読んでやっとわかった。アレクサンダー・ハミルトンら中央集権主義者たちは、それをあまり強調すると州権主義者の支持を得られないと危惧して、自分たちのことをフェデラリスト、反対派のことをアンチ・フェデラリストと呼んだということだ。そしてハミルトンやマディソンらは有名な『フェデラリスト・ペーパーズ』というタイトルの論説を書いたのであった。

そういうすったもんだがあって、合衆国憲法はなんとか批准されたのであるが、アダムズやジェファーソンらリパブリカンが大統領になって強い連邦政府は実現しなかったのはご案内のとおりである。

連邦政府が州にどれだけ干渉できるかという問題はくすぶり続けて南北戦争へと発展する。またそこで黒人などマイノリティの人権も議論の焦点となるのはご案内のとおりである。本書はこの2つと、連邦最高裁の権限が強くなったり弱くなったりすることがテーマである。判事らの個性にも注目しており楽しく読める。

当初は連邦最高裁の力はかなり弱くて、例えばチェロキー族に好意的な判決を出しても州が従わないなどといったことがあった。Trail of Tearsである。

南北戦争の間接的な引き金となったドレッド・スコット事件についても詳しく書いてあって興味深い。結局ここでスコットの訴えを棄却したこと、すなわち南部寄りの判決を出してしまったことで、連邦最高裁は南北戦争後は抑制的な態度を取らざるをえなくなるのである。これは2度の世界大戦と、大恐慌とそれに続くニューディール期を経るまで大きく変わることはなかった。南北戦争後も、あるいは米軍が中南米で棍棒を振り回していた時期でも、各州に対しては、司法を含む連邦政府はかなり弱腰だったのだ。

公衆衛生に関わるところでは、まずジョン・マーシャル・ハーラン判事か。南北戦争後に解放された奴隷を保護するために制定された公民権法を連邦最高裁が違憲としたとき(これも連邦政府が弱腰の一例だろう)、彼は反対意見を述べている。また1896年プレッシー事件で白人と黒人の鉄道車両を分離することは合衆国憲法修正大条の平等保護条項に反していないとの判決(分離すれども平等)を出した時に、たった一人で反対したのもハーランである。
ハーランは上掲の『感染症と憲法』で取り上げられている、ヤコブソン事件でも(公衆衛生の世界では)有名だ。天然痘の予防接種を拒否したことで罰金を払わされそうになったヤコブソンという人物の訴えをハーランは棄却している。これは公衆衛生のために個人の自由をどこまで犠牲にできるかという点で重要な判決で、しかもかなりリベラル寄りとみられていたハーラン判事の判決なのだが、まあ合衆国の歴史の中では些細なことだろうから本書では取り上げられていない。

本書で扱う公衆衛生にまつわる判決はスローターハウス事件だろう。これはニューオーリンズで、屠殺場をミシシッピ川の下流の1箇所に集約し、廃棄物はメキシコ湾に流すようにする会社を設立したのが独占に当たるのではないかという訴訟である。生活用水にもなっているミシシッピ川の上流で動物の死骸などを廃棄されたらたまったものではないという事情から作られた会社で、公衆衛生上は妥当な施策と思われる。しかしこれが北部からの落下傘議員や黒人で占められた議会で可決された法案となると南部の人には受け入れ難かったようで、また実際汚職もかなりあったらしい。
この屠殺・精肉を一企業に独占させるルイジアナ州法は、修正第13条が禁じる苦役であり、修正1第4条が定める適正な手続きと平等保護を否定しているのではないかという訴えであったが、いずれも連邦最高裁は棄却した。ルイジアナ州法は州市民に関することであって、それは合衆国民の平等な保護を規定している修正第14条は関係ないですという理屈で、これはこれでマイノリティの人権という点で禍根を残すのだが、公衆衛生のためにある程度は個人の自由は制限されるという点でも意義深い判決なのであった。

という感じで、有名な判決はだいたい取り上げられていて、しかもかなり詳しい解説つきである。アメリカの歴史を学ぶ上でもかなりおすすめできる一冊である。

阿川尚之氏の著書はだいぶ前に『海洋国家としてのアメリカ』を読んだ。当時は憲法や歴史の知識が浅くて十分に楽しめなかった。いずれ読み直さなくてはいけない。


アメリカ史の総論については、やはり山川出版の山川セレクションがおすすめである。

もちろんアメリカ史がある程度頭に入っている人は、いきなり『憲法で読むアメリカ史』を読み始めても大丈夫である。

アメリカの保険制度に関心のある方にはこちらをおすすめしたいが、これも憲法をよく理解しているほうが楽しめると思われる。


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