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東浩紀『動物化するポストモダン』読んだ

今さら読んでしまった、、、

去年の夏ごろに買ったのだが、今見たらKindle Unlimitedになってるし、、、

まあそれはいいとして。

本書は著者がまだ批評空間でブイブイ言わせてたころに書かれたので、内容はやや古かったりもするが、普通に面白かった。

動物化とはいうまでもなく、アレクサンドル・コジェーブが『ヘーゲル読解入門』でアメリカの消費文化を指して言った言葉である。

コジェーブはそれと対比して、日本の爛熟した文化をポスト動物とか、ポスト歴史と良い意味で指摘したのである。

しかし戦後の日本の文化がアメリカから多大なる影響を受けているのは間違いない。オタク文化が江戸期のリバイバルであるなんて言説はもはや誰も信じていないだろう。

日本にはモダンがなかったから、最初からポストモダンであるという言説もまた、近代の超克と似たりの西洋コンプレックスだ。戦後のほうが、こっぴどく戦争で負けたぶん甚だしいくらいだ。

そもそも日本のポストモダニストがこぞってコジェーヴを引用したことがその証左ではあるまいか。

ポストモダニズムやオタク文化の流行はまさにポスト歴史、簡単に言えば大きな物語とか大文字の他者の喪失の結果である。後期ソ連ではそれはシニシズムとして現れたが、それはおいておく。

オタク文化が大きな物語の凋落によって生じたものなら、コジェーヴのいうアメリカ的な生活様式、つまり動物的なものになるのは必然であったといえよう。

大きな物語がなくなって、それはデータベースにとってかわった。これは象徴界みたいなものかな。そして想像界に表れるのは、データの順列組み合わせにすぎない。シミュラークルである。

つまり差異を消費している。記号的な消費といってもよい。失われた大きな物語想像的に埋め合わせるのではなく、ただただ虚構を消費している。

そこに間主観性はなく、欲求とその充足という閉じた回路の中での充足があるだけだ。

これが動物化である。たぶんヘーゲル的な人間理解とか、ラカン風の欲望についての見識があればもっと理解できたと思うが、残念ながら私の脳みそではこれが限界であった。


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