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坂口安吾『堕落論』読んだ

積読を解消しなくてはと思って坂口安吾のエッセーなど読んでいたのだ。

(私がもっているのは、ちくま文庫『坂口安吾全集14』である)

いちいち全部は読んでいられないので、有名な「堕落論」とか「日本文化私観」などだけ拾い読みしている。

「堕落論」は終戦直後にかかれたもので、面白いエピソードが紹介されている。例えば軍人政治家たちは戦争未亡人の恋愛小説を書くことを禁じていたが、それは彼らが日本人の本性にことのほか敏感だったからとのことである。

あるいは童貞処女のまま愛をつらぬこうと心中した学生と娘であるとか。

さらには四十七士は、切腹させられることで、堕落することを免れたとか。

実際、終戦とともに闇落ちした人々を安吾はたくさん見聞きしていたようだ。さりとて闇落ちした人々を否定するわけではないし、そうなる前に亡くなった人々をことさら持ち上げるわけでもない。

人間はとことん堕落する強さをもたないから、処女のまま死なせなければならないし、武士道によって死ななければならないし、死ぬことがままならないなら天皇を担ぎ出すほかなかった。

安吾は処女とか武士道とか天皇制を単純に否定しているのではない。堕落しきることによって、借り物ではない自分自身のそれらを紡ぎ出せといっている。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐で脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。

だが堕ちきることなどないと断言しよう。

この3年で痛感したのは、この国の堕落とみえるものはたんなる服従だった。

信ずるものへの忠誠ではなく、空気的なものへの服従である。

だから変わり身も早い。なにごともなかったかのごとく、手のひら返して生活していくだろう。

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