愛の形態、概念などについて
先日の週末はなにかと忙しかったのだが、週末恒例の仏教のアレさんの読書会を楽しく聞いたのであった。
『Why I Am Not a Buddhist』の読書会ももう8回目である。
今回は悟りについての疑問、つっこみである。
以下は私個人の備忘録である。
瞑想の実践においてはしばしば概念付けをやめなさいというようなことをいわれるが、悟りとは概念とか条件から離れることであるので当然そういう言い方になる。しかし伝統的な仏教の記述においては、悟りは消極的な形でしか語られない。これまた概念から離れようとしたらそうなるほかないからであるが。
しかしこれは一般人にはわかりにくい。いろんな人がいろんな形で悟りを語るからである。
これらを統合的に捉えようとする超宗派的な運動もあるが、そうした普遍主義もまたある一つの視点にすぎない。あるいは押し付けがましいだけだったりする。
つまり悟りとは一意に定まらないものなのである。またブッダへの信仰や、無意識的な信頼が前提になっている。それらは概念的には語り得ないものであるが、だからといって悟りが概念依存的でないという話にはならない。
概念でなければ共有できないし伝道できない。その例として著者のエヴァン・トンプソンは「愛」を持ち出す。
歴史的には様々な愛の形があった。神への愛、少年愛、ペットへの愛、衆道、推し、兄弟愛などなど。これらは概念化されているから伝播しうる。しかし文化にも依存しているから、文化が失われればその愛の概念も失われてしまい、もはやアクセスできなくなってしまう。文献的にしか知り得ないし、とりもどせないし、追体験もできなくなる。
「愛」は我々の本能に埋め込まれたものでもあるけれど、文化、伝統、文脈などに依存している。「愛」には非概念的な要素もあるけれど、概念なしに成立するわけではない。
悟りの形態のうちのいくつかはもうアクセスできないものだろう。逆に現代における悟りのうちのいくつか古代インドの人々には理解不能かもしれない。
悟りは「愛」と同じように概念に依存しているし、我々はそのことに自覚的であったほうがいいではないか。弟子と師匠の間だけで、密教的に体系的に学んでいくのであれば概念依存的であることに無自覚なままに悟りに至ることができただろうが、現代は閉鎖的な空間を作りにくい。
放送では触れられなかったけど、概念依存的なものとしてエヴァン・トンプソンは貨幣も例としてあげている。「貨幣愛」なんて言葉もあるくらい貨幣は概念的なものである。貨幣という概念は歴史的に変遷してきたであろうし、現代も非兌換通貨、信用貨幣、暗号通貨など新しい形態の貨幣が登場するたびに貨幣の概念は変化している。このへんのことも考察する価値があるなあと思うのであった。