沖縄の音楽は自由にしたか?

沖縄の音楽は自由にしたか?
~坂本龍一と沖縄➁~

”当時、ネーネーズもまだなくて、沖縄音楽といえば伝統的な民謡がほとんどでした。それをポップスの土俵に持ち込んだのは、細野さんを除けば、たぶん僕が初めてだったと思います…(中略)…でも僕には、博物館の中の民謡としてでなく、色々なものと触れて現在の音楽として変化していくことこそが、生きた音楽としての沖縄音楽に必要なものだ、という考えがありました。そして、自分の音楽がそういう流れにつながる新しい芽を生み出すことに少しは貢献ができたとの自負があります。”

坂本龍一”音楽は自由にする”より。

沖縄民謡の第一人者であり、同時に沖縄ポップスの先駆者でもある知名定男の自伝、”うたまーい”には坂本龍一のこんなエピソードが書かれている。1980年代の後半、多分、NeoGeoのツアーを準備中の頃だから1987年だろう、彼のもとに坂本龍一から連絡があった。”今度、沖縄ものをやるんで色々とアドヴァイスを聴きたい”と教授が言ってきたのだ。教授と知名はコザ(?)の民謡酒場で落ち合い、一時間ほど話し合ったが、その際、”へたなことをすると沖縄のためによくないことにならないか”、教授はそんな危惧を口にした。知名は”通りすがりのあなたにはおこがましくてアドヴァイスなんてできない、あなたはよく沖縄を研究をしているようですから、あなたなりの沖縄感を表現すればいいじゃないですか。あまり頑張らず、頑張ってください”と言うと、教授は”その通りでした。力みすぎてました、ありがとうございます”と答え、とても喜んだという。

教授が本格的に沖縄音楽に取り組む決心をしたその時期に、沖縄音楽の第一人者の知名を沖縄まで行って訪ねたというのは、実は不器用なまでに生真面目な彼らしい。ただ、知名のアドヴァイスは一見したところ、特に具体的なところのない、当たり障りのないもの。それを恭しく拝聴するかのような教授の態度は微笑ましいとも言えるが、この逸話、沖縄やニューカレドニアの離島、あるいはアフリカなどの共同体的紐帯が強く残る地域で、民俗学調査を行おうとする学者が、地元の長老に事前に行う挨拶の儀礼と瓜二つ。学者は意図を真摯な態度で説明し、共同体の掟を犯すことなく、迷惑もかけないことを誓う。長老は学者といえども共同体外の者がその掟やその意義を完全には理解できることはないことを知っている。そこで、外部の者に一つだけ条件を出す。”あなたは通りすがりの外の者。その分際を守り続けること。で、あればあなたの立ち入りは、何ら私たちを脅かすものでない”。学者は喜び、その場を辞す。教授と知名とのやり取りは、このように理解すべきものだ。

教授が訪ねた知名定男は1978年に本土でもポップスでデビュー、その時、レゲエのリズムを取り入れたこの曲は一部の音楽好きの間でも評判になった。
この曲は90年代にはネーネーズによってカバーされている。

教授がOkinawan Songとして取り上げた”ちんぬくじゅーしー”とは沖縄風の里芋の雑炊のことだそうだ。伝統的な大家族の情に溢れた食事の様子を歌ったこの唄は、現在でも民謡、あるいはわらべ歌と理解されて沖縄では親しまれているが、実は1968年ごろに、沖縄のガールコーラスグループの草分け、フォーシスターズの歌で発表された当時の新曲だった。
これは、おそらく70年代以降に吹き込まれた再吹込み版。沖縄ではレコード10万枚を売り上げる大ヒットとなった。教授はこの曲を歌える歌手を探して、この曲の作曲家でフルート!及び尺八奏者の三田信一氏を通じて、オキナワチャンズにたどり着いた。三田さんは沖縄のジャズメンの草分けだが、同時に普久原恒勇や知名定男が作り出そうとした第二次大戦後の新たな沖縄音楽のサウンド作りに深くかかわっていた。

教授はNeo Geoの中で、沖縄民謡のわらべ歌、耳ちり坊主をオキナワチャンズに歌わせて引用しているが、喜納昌吉とチャンプルーズが1980年発表のアルバム、Blood LineのB面の二曲目で、もうひとつの沖縄民謡、”だんじゅかりゆし”とメドレーで演じている。純正民謡曲のポップ化ということで、最も成功したもののひとつではないだろうか?(21:00のところから)。

オキナワチャンズの3人のメンバー全員は、既にオキナワチャンズ参加前から沖縄でのヒット曲を持ち、実力も評価されていた若手唄者たちだった。
1979年の我如古より子のヒット曲、娘ジントーヨー。作者は沖縄の最大の作曲家、沖縄の服部良一兼古賀政男兼筒美京平でもある普久原恒勇。

玉城一美は知名定男作曲のこの曲を1979年にりんけんバンド(ただし、彼がブレークするのにはその後、10年待たなくてはならなかった)をバックに歌い、発表している。

そして教授と最も深い音楽的付き合いを持ったと思われる古謝美佐子。正確な発表年さえわからないのだが、おそらく1983‐1984年と思われる、沖縄では知らぬ者のない大スター、げんちゃんこと前川守賢とのデュオ、かわんなよ。唄者の中では真面目で、アーチスティックな印象の古謝も若いころはこんなポップで可愛かったのか。

以上、すべて教授が取り上げた沖縄音楽あるいは教授が関係した沖縄の音楽家の、教授との出会い以前、つまりNeo GeoやBeauty以前の作品だ。これらの曲、どれもが民謡的な要素は濃厚にあるものの、決して”博物館に飾られるようなもの”ではないし、本土で”民謡”から連想される民族音楽的なものとは程遠く、むしろポップ音楽と呼んでいいものだ。

実は、第二次世界大戦後、沖縄では社会全般が戦争で壊滅的な被害を受けて、社会が0からの立て直しを余儀なくされたこと、アメリカ軍政下で日本から切り離されたこと、その結果として決して大きくない市場規模に沖縄独自の音楽産業が長く孤立して置かれたこともあり、日本本土のような歌謡曲的なポップ音楽の発展は出来ず、代わりに民謡が、その音楽形態を大きく変えず、そのままの形でポップ音楽としての役割を社会の中で担うという期間が長く続いた。沖縄の民謡が日本本土の多くのもののように博物館のものとは一貫してならず、活力を維持し続けられた、いや、維持し続けざるえなかった理由である。それでもポップ音楽である限り、社会と人々の変化に伴った変化は必然的に起こる。

先駆的なものをあげれば、りんけんバンドのリーダー、照屋林賢の父親であり、アメリカ軍政時代から復帰後までの時代の沖縄最大のエンターテイナーだった照屋林助の年中行事口説という曲があり、これなど吹き込みは細野晴臣のRoochoo Gumboに遥かに先立つ1950年代のはずだ。

民謡が時代に応じて変容していくという意味での沖縄音楽の変化は1960年代以降にも継続的に起きており、それを代表するヒット曲となったのが、本土でもその後、ロック世代にも受け入れられて大ヒットする、喜納昌吉のハイサイおじさんだろう。このオリジナル録音は1969年から70年ごろと思われる。

ただ、そんなコンスタントに活力を発揮し続けた沖縄音楽にとって、最大の試練は沖縄の日本復帰以後に訪れた。民謡第二期黄金時代と言われた1960年代後半から1970年代初期、ブームの温床となった民謡酒場の過度の濫立は民謡の質の低下をもたらし、そこに復帰直後の海洋博の大失敗による地域経済の低迷が決定打となり、黄金時代は復帰直後にあっけなく崩れ去る。そして圧倒的な経済力と物量を盾に押し寄せた本土化の波は、人々の意識の本土化も容赦なく進めた。この時代、沖縄の若者の多くは祖父、祖母の世代のウチナー口をそのままでは理解できなくなり、音楽も含めた文化も本土志向が強化された。当然の帰結として、それはそのまま沖縄音楽の低迷に直結した。80年代、喜納昌吉は本土メジャーから切られ、バンドの維持もままならない細々とした音楽活動しかできなかったし、知名定男は彼自身が企画した沖縄音楽ミュージカルのプロジェクト(実は後の安室奈美恵が子役の一人として出演していたという)が惨憺たる結果に終わり、多額の負債で音楽活動がままならなくなってしまっていた。照屋林賢も様々な試行にも拘わらずブレークしきれない。復帰前後に竹中労の必死の努力であれほど多数、本土に紹介された嘉手苅林昌を初めとする沖縄民謡のレコードのリリースもぱったりと途絶えてしまった。沖縄音楽は博物館行きになったわけではなく、様々な試行は散発的に行われていたにせよ決定打は生まれず、沖縄の音楽家にとって閉塞感ばかりが募っていった。教授が沖縄音楽に取り組もうとしていた、1980年代後半の状況はこのようなものだった。

教授は民族音楽への造詣が深く、”共同体が長い時間をかけて培ってきた音楽には、どんな大天才も敵わない”というほどの人だから、民謡を初めとする沖縄音楽を高く評価していたことは間違いないし、それゆえにこそ1980年代後半の沖縄音楽の状況に歯痒さと、沖縄音楽の真価が外部からは埋もれたままになっていることへのいら立ちを同時に感じていたろう。そして、80年代の後半は、世界中で音楽が共同体の枠を超えての展開が可能になる時代の始まりだったし、将来的にはその方向に進むことが、どの様な共同体の音楽にとってもいずれ必要になるだろう、そんな風に考えていたのではないだろうか。しかし、それまでの沖縄音楽は、外部からの影響を果敢に消化し続けてきたものの、その結果を沖縄外部にまで展開しようという努力はほとんどなかった。まして、日本本土のみならず、さらに広い世界まで意識して沖縄音楽に取り組むということになれば、それは確かに教授の言うとおり、細野晴臣の決して十分な自覚の上でのものとはいえない試みを除けば、教授が最初だったのかもしれない。

教授はNeo GeoとBeautyで沖縄音楽への取り組みに一段落を付けると、その後は沖縄音楽からは離れ、恐らくは意識的に積極的な関わりは避けてきた。ただ、その間も決して沖縄と沖縄音楽を忘れ、封印したわけでないことは、彼のオペラ作品”Life”に今一度、オキナワチャンズを呼び寄せたり、”安里屋ゆんた”をライブのレパートリーとしていたことでわかる。そして25年を経て、沖縄の女性唄者のグループ,うない組と、沖縄外部の者が一聴したところでは、沖縄音楽そのものとしか思えないような弥勒世果報というシングルを発表する。だが、これは、元々沖縄とは無関係に教授が発表した曲を、うないぐみからのアプローチがまず先にあって、改作したものだった。そこには25年前に教授が手掛けた”沖縄音楽”に纏わりついていた過剰なまでの力みはもはやない。

沖縄音楽は80年代の低迷を経て、90年代に一挙に大爆発を起こすが、教授の作り出した音楽がそのきっかけの一つになったことは間違いない。少なくとも90年代以降の沖縄の音楽家は、あの頃の教授がそうだったように、もはや沖縄だけの世界だけに充足する音楽で満足しようとは思っていないはずだ。彼らは皆、何とかその先、本土まででもない、さらにその向こう、そこまで見据えてこそ、沖縄音楽の未来は開ける、そのように考えるようになっている。

長老は四半世紀が過ぎて、共同体にも時代の大きな波が寄せて、その掟も皆の考えも、文化もいつの間にやら大きな変化が起きてしまったことを痛感せざる得ない。思い返してみれば、その変化はあの時、学者の情熱にほだされて彼を迎え入れた直後から本格的に始まった。共同体の中に外の目が入り、それで皆の意識が変わっていったのだ。長老は改めて考える。それでも、彼は通りすがりの外の者という分際を破ったわけでもないし、掟を犯したわけでもない。私の見通しが甘かったのか?いや、おそらく変化の原因は学者でも、彼を許した長老自身でもなく、時代そのものなのだ。それが証拠に変化は学者の登場以前から徐々にではあっても始まっていたではないか。いずれ大きな変化は遅かれ早かれ起きるものだったのだ。だとすれば、あの学者がそのきっかけになったことは悪いことではなかった。少なくとも、私たちはこの変化を頭ごなしに外から被るのでなく、自分たちで選び取ることができたのだ。あの学者のしたことはそれに役立ったのだから。

P/S この文章に引用させていただいた動画のアップ主の皆様、引用写真の作者の方に深く感謝します。

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