豊田長康『科学立国の危機:失速する日本の研究力』【基礎教養部】[20230809]

※私が属しているジェイラボというコミュニティでの活動の一環です。

振り返ると、こういった「データ!データ!統計処理!提言!」みたいな文章に触れたのはかなり久しぶりであった。

著者の抽象的な主張のために具体的な文章を引用するような本ばかり読んでいて、著者の具体的な主張のために具体的なデータを引用するような本は普段あまり手にとらない。実際、この本は大学一年次にどこかの教養科目の教員が雑談で話していたのがきっかけで買い、それから3年積読した代物である。自分の純粋な興味から手に取ったわけではない。

なぜ今この本の積読消化を試みたのかと言えば、私が絶賛アカデミック的進路に進もうとしているからである。修士課程のための東大大学院入試の勉強をしている最中に、半ば自傷行為のように日本の大学が「終わっている」証拠に触れたくなってしまったのである。

読んでみると、この現状のままだと日本としては確かに衰退していくのだろうが、東大(含む旧帝大)に関してはむしろ優遇されていること(選択と集中)が示されていて、なんだか肩透かしを喰らってしまった。

修士課程に進んだとして、その後博士課程→ポスドク→…みたいな進路に進むのかどうか、ずっと決めかねている。高校の友人などと比べた際の自分の立ち位置としては進んだ方が特異で面白いのだろうが、そこまでして人生を投げ打つのなら芸人を目指した方が楽しいのではとさえ思う。

というわけで、博士課程をなんとかして諦める証拠が欲しかったというのがあったのだが、その意味では不完全燃焼で終わってしまった。もっと明確に引き止めてほしかった。

内容の話をしよう。

何かの縁で、ここ最近ずっと「アンチ資本主義・アンチ新自由主義・アンチ民営化」的な文脈の文章に連続で触れているが、この本もその文脈で取れなくもない。

国立大学を法人化したことで、民営化とは異なるものの、大学が競争社会に投げ込まれてしまったわけで、さらに「選択と集中」政策によって大学の貧富の差が拡大した。競争社会に投げ込むことで行政のスリム化と論文の質の向上を図ったわけだが、結果は失敗。どこが伸びるか見当もつかない研究の世界では、「バラマキ」によって広範囲の芽を育てることが重要だったわけで、それができるのは「公」たる国家しかない。

広い目で見れば、この現状を招いたのは新自由主義的な考え方による国立大学の法人化・行政のスリム化の影響が大きいと言えそうだ。

個人的には、「学問を政府が軽視している」ことが根本原因とは(意外かもしれないが)思っていない。今、日本は研究教育に限らずカネを出すのを渋っているように見えるからである。税金で民間の財布を締め付け、国の支出も抑える。このような財務省が筆頭となった財政の方針に問題があるのであって、「政治家が学問を修めていないから〜」みたいな短絡的な話ではないのではなかろうかと感じる。

本書でも結局はカネだとはっきり記されている。そんなことは誰でもわかっていて、目新しさは皆無だが、「研究の重要性だけを政治家に説いても何も変わらない」と書き直せば、もっと奥の問題に目が行くのではないかと思う。そんなことを言ったって財務省はカネを出さない。

形式の話をしよう。

最初に言った通り、データばかりの本や論文は久しく読んでいない。これは自分が数学科であり、尚且つDaigo的な情報のインプットを好んでいないからだ。

自らの主観的な視座を大きく揺るがすには、強烈な主観が必要である。普段読む本はなるべく、強烈な抽象的主張を具体的引用でもって補強するような本にしている。

データと統計は(私の)主観を動かさない。簡単に言えば、感動しない。必然的にそういった本は道具的・踏み台的な位置を人生の中で占める。今回の本も、まさにこれからの日本の動向を観察するための道具であって、それでしかない。

自然科学については、データに整合する数理モデルを「発見・創造」するところに面白さを感じる。これは単なるデータを超えたいわば強烈な客観とでも言えるものであり、自分の世界を見るフィルターを時々壊してくれたりする。

、、、数学書はなんなのか。私は数学徒であるわけだが、これの何が面白いのかよくわかっていない。客観も主観も、建前上は何もないように思われる。公理から演繹されることが「ただ並べられているだけ」と言えなくもないので、データの羅列と何が異なるのか言語化が難しい。

人間の認知機構の奥深いところに触れているからというのが今の所の暫定的な回答だが、焦って答えを出さないでおきたい。寝かせておくことにする。

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