カミュ『シーシュポスの神話』【基礎教養部】[20240229] Hirotoのnote

※私が所属している「ジェイラボ」というコミュニティ内での活動noteです。本を読んで、それについて語る活動の一環です。もちろん、外部の方も読める内容です。

この本はチーム内のYujinさんという方が挙げてくださったのですが、私は無知なので「カミュ」がいかなる人物なのか、『シーシュポスの神話』がいかなる書物なのかをそれまで知りませんでした。普段ならばその段階でいきなり読み進めてしまうのですが、というか実際2ページくらい読んでみたのですが、今回は周辺知識から埋めていくような読み方を試みました。このまま読み進めてもなんのこっちゃわからなくなるぞと頭の中で警報が鳴ったわけです。

『読んでいない本について堂々と語る方法』を読んだ影響もあります。本を取りまく情報こそが大事であるというテーゼは極端ではあるものの、一般に新しい物事を知るときのメカニズムを的確に示しています。
また、数学の活動で『圏論の地平線』を読んでいることも大きいです。対象を外との関わりにおいて理解しようとするのはまさに圏論的であり、その感覚が身体にインストールされたからこそ、今回は周辺情報から探っていくという決断が取れたのです。

実際カミュがどんな人物でこの本がどのような本なのかはここで詳しく書きませんが、雑にまとめてしまえば「理性でもって世界に立ち向かい続けろ!」という主張がこの本ではずっとなされています。Yujinさんは自殺というキーワードからこの本に辿り着いたようですが、上の主張からは「だから自殺はするな!」という主張が導かれます。そう、この本は自殺を食い止める本なのです。

そうなるとどんな優しい言葉が書かれているのかと期待されるかもしれません。しかし残念ですが、自殺をしてしまうほど人間と世界の間の摩擦は苦しいものであるというのがこの議論のそもそもの出発点にあります。その苦しさに向き合い続けろと言っているわけなので、何も優しいことなどありはしません。むしろ、厳しさしか論理的に導かれえないということを冷静に見つめる書物なのです。

ここからカミュは面白い議論を展開します。一旦その根源的苦しさと向き合い続けることになったなら、そのほかの価値基準から完全に自由になるのだと主張するのです。金持ちか、健康か、幸せか、そのどれもが「どっちでもよいこと」に成り下がります。不条理(世界と人間理性の摩擦)への反抗を前にしたとき、人生の「質」なるものは究極どうでもよいことになるのです。

ここで私自身の話に結びつけると、私の最近の目標は「より気持ち良い生を営むこと」だったのでした。

これはカミュにとっては「どうでもよいこと」とされます。私もこれが原理的なものではなく、それに従属した非本質的目標であることは理解しています。しかし、快適であってもそうでなくてもどっちでもよいのだという主張は素直に納得しかねます。

これは誤読しているとかではなく、むしろ正しく読んだ上で、カミュの語る「不条理な人間」に私が当てはまらなかったという話だと現時点では解釈しています。そもそもカミュは本書の中で、日常に何の疑問も持たずに暮らしている人のことにも言及しています。不条理を体感せずに生きている人のことですね。そんな毎日の中でひょんなことから不条理に取り憑かれてしまった人に向けてこの本は書かれています。

カミュは、不条理に直面してあらゆることが虚無になってしまった人が、いかに自殺的な逃げ方をせずに生を全うできるのかを考えたのであって、その前提である不条理を共有していない人は議論の範囲外にいます。私は、カミュの想定する読者から外れていたということなのです。

ショーペンハウアーは『読書について』において、自己の思索に結びつかない読書に価値はないが、それはそれとしていつか結びつくことを期待して読書をするのがよいという旨の主張をしています。今回の私と『シーシュポスの神話』との間にはまさにこのような溝があったのでした。自己の思索には結びつかないのだけど、いつか不条理に直面したときに参照できる手持ちの武器が増えた。そのように捉えることに、一旦しておきます。

自己の人生に結び付いてはいないが、いつかのために貯蔵しておくこと。そのシステムについて現在思索をめぐらさせています。まとまったら文章化して公開するつもりなので、ご期待ください。


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