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第19話 Evidence-Based Medicine

 僕らは、玄関で靴を脱ぎ、先を行っているアラトさんたちの後を追い廊下の先へと向かった。
 所々敷物や畳には、少しシミが見える。昔ながらの独特な香りと、古びたアンモニア臭が混じり合い、ホコリと共に不快な匂いを醸し出している。
 マスクをしてても立ち込めてくる特有の存在感、高齢者の独居のリアルを感じつつ、自分の匂いに意識を傾けながらお婆ちゃんの家の中を歩いた。
 アラトさんと僕らは、奥のドアを開け、リビングの様な部屋に入り、ダイニングテーブルだろうか、少しベタついている机の周りに集まった。

「ちょっと日記みたいなの探してみるから、少しここらで腰掛けて待っててくれ」

 部屋の中を見渡してみると、壁には、ウォールポケットがたれており、袋詰めされた薬がセットされている。
 朝昼夕寝る前と大きく色分けされて、日付や名前が印字されている。
 お婆ちゃんの名前は、植部康子さんらしい。
 薬は、朝と寝る前が少し減っており、印字された日付を見ると、昼と夕食後はほとんど飲んでおらず、朝食後がちらほら、寝る前が一番飲めているようだった。
 アラトさんがいる時は飲ませてあげられているのだろう。自分の時間軸も把握できていない、認知症のお婆ちゃんに、朝昼夕寝る前を把握して薬を飲むことなんてできるのだろうか。
 実際、壁にかけられている薬たちは、それが不可能であることを物語っている。

「お薬結構飲まれてるんですね」
「ん? あぁ、朝のは飲んでなかったら、俺がきた時に飲ませてるんだが、他のはな……寝る前の薬は、睡眠薬もあるみたいで、眠れないのか、好きなのかきちんと自分で飲んでるみたいなんだが、まぁ何時に飲んでるのかはわからんよ。そもそも飯もそんな食べれていないしな」
「こんなに飲んでるとそれだけでお腹いっぱいになってしまいそうだもんね……」

 見てみると確かに朝の薬は10剤くらい入っていそうだ。こんな量は、たとえ僕らでも飲むのはきっと大変だろう。
 机の上には、食べかけの食事も残っている。
 小ぶりなお皿に盛ってある食事は、多分最初から量はそんなになさそうではあるが、全部食べきれていないようだ。

「薬は一度増えるとなかなか減らないみたいでな。どんどん薬は増えてってしまってるんだよ。まぁ、本人は薬好きみたいでむしろ減らしたくないところもあるみたいなんだが。でも実際飲めてないんだけどな」
「薬飲んでも効かないのよ、もう腰が痛くてね、便も今日はまだ出てないのよ」
「そりゃあ、薬は飲まないと効かないよ、湿布ももう体中貼ってるし……それに飯だって大して食ってないんだから、出るもんも出ないだろう」

 高齢になればなるほど、病気の罹患数は増えていくと思われる。高血圧、糖尿病、認知症、老年症候群など、それら全てを何とかしようと思うと、必然的に薬の数も増えていくのかもしれない。
 生活習慣病は、治せるものではなく、うまく付き合っていかないといけないものなのだろう。壁に残されたままの薬に、頓用目的でもない薬をたまに飲んでいくことにいったいどれだけの効果が期待できるのだろうか。
 お婆ちゃんを見ていると、これだけたくさんの薬を頑張って飲まなければいけない理由が霞んでいくように思える。

「腰が痛いのよ! なんとかならんかねぇ……」
「お袋さん、とりあえず、昼の薬を飲んでしまいなよ。痛み止めも入ってたと思うし」
「……薬なんて私飲んでたかい?」
「毎日飲んでるよ! ちょっと待っててくれ」

 そう言いながら、アラトさんはウォールポケットから抜き出し、昼の薬を机の上に置いた。
 お婆ちゃんはおぼつかない手で薬の袋を開けようとして、中の薬が散乱してしまい、机の上に散らばったり、床下に落ちてしまう。
 僕は、床に落ちた薬を拾おうとして下を覗くと、他にも無数に落ちている薬を見つける。おそらく、昨日かそれ以前の薬なのだろう。
 向こう側で拾おうとしているアラトさんとも目が合う。

「あぁ、袋詰めしてくれるのはありがたいんだが、袋も開けづらいみたいでな。飲めてるのか飲めてないのかは、まぁ……この通りよ」

 お婆ちゃんは1錠ずつ、薬を飲んでいる。
 6錠飲むのも一仕事だ。10分くらいかけて飲み終えている。
 お婆ちゃんは、今は痛みを抑えたくて薬を飲んでいる。
 腰の痛みの根源を治すわけではない、対症療法的な痛み止めは、お婆ちゃんを笑顔にさせることはできているのだろうか。
 認知症を抑えるための薬はどうだろう。これ以上症状を進行させないために? QOLを上げるために?
 これらの薬は飲み続けることで、お婆ちゃんの幸せに寄与できているのだろうか。

「腰が痛いねぇ」
「飲んだんならそのうち効いてくるだろうから、しばらくじっとしてるんだよ、お袋さん」
「お婆ちゃんは、痛み以外にも辛いところとかはあるんですか?」
「眠れないし、めまいはするし、耳鳴りもするしね。やんなっちゃうわよ。こうね、立ちあがろうとすると、くるのよ。耳鳴りもね、工事してるような音がずっと聞こえるのよ――」
「歳とるとみんなそうなるんだよ」

 アラトさんは、多分何十回と聞かされているんだろう。もう、わかったよという感じで被せ気味で答えている。
 お婆ちゃんは、きっと自分と向き合う時間が1日の中で多いんだと思う。
 高齢者の独居生活、ADLの低下した生活の中では、自分と向き合う時間が必然的に多くなってしまうんだろう。
 自分と長く対話していくうちに、今日トイレにまだいけていない。眠れていない。あの辺が痛む。だるい気がする。そのような感じで、日常に問題がなかった頃と現状を絶え間なく繰り返し比較して、不満を募らせていっているのかもしれない。

「お婆ちゃんは、ずっとここに1人なんですもんね」
「独りは、長くなればなるほど、自分の虚構が力を強く持ってしまう。お婆ちゃんは、いつからその世界に閉じこもってしまっているのかしら」

 ……独りで自分と向き合っていければ、自分のことは深く知っていけるのかもしれない。
 ただ、そうやって深く掘り続けていった時、自分の中から抜け出すのもきっと難しくなるのだろう。
 お婆ちゃんの悩みは湯水の如く沢山ある。それらは全部解決しなければいけない問題なのだろうか。
 そうであるならば、そのためにはいろんなものに頼らざるを得なくなるのも事実だろう。
 それらの費用対効果はどうなのか。飲めていない薬は、お婆ちゃんの問題のための真の解決策となれているのだろうか。
 野晒しにされている薬は、本人にとっても、周囲の人にとっても、医療従事者にとっても、都合よく解釈されているだけなのかもしれない。

「もう歩くのもやっとなのよ。痛いのはどうしようもないねー」

 運動や栄養面も、疾患によっては必要なものもあったり、指導されているものもあるのかもしれない。
 薬も飲めなく、記憶も曖昧な中、自分の身体も自由にできない中で、どこまで一般的には正しいと言われることを、推奨事項を完遂していくことができるのだろうか。
 そもそも診療ガイドラインの記載通りに機械的に完璧にこなすことが、お婆ちゃんの望みにつながっているのか、実生活に寄り添ったものになれているのか、そこはただの一要素なのかもしれない。

「色々と記憶は薄れていくのに、痛みとか苦しみの記憶は、感情は刻まれていくのね」

 リコは、お婆ちゃんを見つめている。
 医療は、科学と共に発展し、今では多様な選択肢が増えてきているのだろう。ただ、色々分かってきたからこそ、医療の限界も鮮明に見えてきている部分もあるのだと思う。その中でどう自身の健康観を位置付けるのかは難しいことなのかもしれない。
 お婆ちゃん自身の意向は、認知症の治療をすることでお爺ちゃんを探し続けることをやめたいのか、手触り感のある痛みなどの治療を優先して欲しいのか、意思決定能力が低下した場合その意向をどう汲み取ってあげればいいのか。
 お婆ちゃんの周囲の状況は、支援できる人はどれだけいるのか、経済面はどうなんだろうか。
 かかりつけの医療従事者の判断、経験は、どう影響しているのか。
 お婆ちゃんが罹患している疾患の各診療ガイドラインは、どういう推奨をしているのか、内的・外的妥当性のあるエビデンスなんだろうか、エビデンスギャップはないんだろうか。

「お婆ちゃんにとって必要なものは、きっと医療のことだけじゃないんだろうね」
 
 医療の中では絶対的に正しい選択などないのだろう。だからこそ、納得するために、様々なことを踏まえる必要がある。エビデンスだって意思決定を行う上で少し支えてくれるくらいのものなのだろうから。
 そのためにも意思決定においてもポートフォリオを意識しておく必要があると思う。
 自身の意向、周囲の状況、医療従事者の経験、エビデンス、比重を偏らせずに分散させておくことで、こと健康に関してもリスクヘッジとしていけるのかもしれない。
 ベストではなく、その時その時のベターな立ち位置を模索していく、健康という曖昧な虚構を願って。

「お父さんはどこ行ったんだい?」

 お婆ちゃんにとって、僕らが関わったことと関わらなかったことで、笑顔にいったいどんな変化が訪れていくんだろうか?

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