個性の有無。弁解。

社会的一面って使う方からすると便利だし、使われる方からすると個性を殺す部分でもある。
社会って悍しいところ。
あたしは必要最低限以上の社会的一面は出しません。
その一面の規模は小さくて十分です。

社会的一面が、その人の全面的性格になりつつある時は、覚悟だ。
その人のプライベートゾーンは無いに等しい。
常に社会的なポーズをとっている程度のモチベーション。
これを個人と呼べるのか。
一人の時間くらいは自分の時間、内側に入る事も忘れてはならない。

しかしそれを個人と呼べる場合もある。

というのは人間は、幼少期の教育や周囲環境の中で自我が芽生え始める。
自我は自分の中で生まれるし、死ぬ事もある。
自我の目覚めには自分の周りの環境が大部分を占めている。
その自我が個人を成長させる。
その成長は止める事も、進ませる事もできるはず。

個人とは社会や国家、集団を構成している個々の人。それぞれの人という意味。

社会色に染まった人からの"ありがとうございます"が疑わしく聞こえるのもこの問題が大きく関わっている気がする。

社会的一面は個人か?あるいはただの社会的一面か?

その個人と社会(集団)は別ものだ、と言い切る事ができないのは、対象に対して能動的であるか、というのがポイントだからである。

能動的というのにもパターンがある。
自分から攻めるタイプ。
自分から受けるタイプ。
どうでもいいタイプ。
大まかに括る。

例えば、対象が"お給料"だとする。

パターン1は"契約件数を誰よりも多くとる"だとする。

会社にとっては有益であるし、本人にとってもそれが機動力になっている。様に見える。
これは社会システムであって、そこへ個人の目標を掲げる事は社会システムにとっては正しい仕組みである。
そしてその対象への意欲は満ちている状態ではあるが、そのモチベーションを一定に保つ事は可能なのか。一時の情熱ではないか。更にその誰よりも多くとるというのは、数少ない契約者を独り占めにする事が、何を意味するか。最高値は自分を奮い立たせるだけのものになっていないか。
考えられる要素は沢山あるのだが、これくらいにしておこう。
営業の結果はわからないのだから。

ではパターン2の"通常の件数をこなす"だとしたら。
先程の"誰よりも"のタイプからすると消極的に聞こえる。
しかし通常の件数をこなすという事は外部の問題などから支配されない様にする試みでもあって、自分がもつ新規契約件数の最低と最高の幅を持たない事に対して、一定を数値化する難しい意欲でもある。

営業パターンへの個人の意欲はなんとでも公言できるものかもしれないが、実践から結果としてなるのだからどちらがどう、というのは難しい。

パターン1、パターン2にしても会社に属すという事は、自分から積極的に挑む能動的パターンと、降ってくるものを受け止めて形にしていく能動的パターンがあるのであって、どちらが突出しているか、という話ではない。

その2つの能動的パターンからやや中間に位置する、自発的にならない能動的パターンというのがある。

それは自分の中に何の拘りも、世間に対しての感想も、政治に対して何の意見も、家具の配置や、自分の大好物すら、無いに等しい状態の個人の事。

パターン3は自我が芽生えていない状態の事である。

自我というのは、個人を形成する概念も含む。拘りや、意見など。

パターン3は"無言"もしくは中身の無い"頑張ります"である。

何をやったらよいのか、何が楽しいのか、何を言えばいいのか、そんな事を空白の時間に考えているタイプである。
もしくは何も考えていないタイプでもある。
社会や会社に対しても何の疑問も抱かないのだ。

こういったタイプが社会色を身に付けると一番に仕事人になったりする。

所謂、ロボット人間。

というか"社会"はこういったパターン3タイプが量産される日を今か、今かと待ち望んでいる。

自我が無いというのは、個人としての特徴が無いという事。
個人が保護者によって守られている状態にも似ている。

人間はその社会の中で私生活を営む。
私生活の中では自分のやるべき事や、家事、娯楽や趣味に勤しんだりする。
そういった事の中で個人を育む。何歳になっても、それは同じだろう。

パターン3の場合はこういった場合が多く該当するはずだ。

そのやるべき事を家族がやり、家事も誰かがやり、娯楽などの趣味はなく、与えられた時間の中で過ごす。
ただ、拘りの無い時間を過ごす事のできる人、とも言える。

人間は何から、何を生み出す事ができるのだろう。

パターン3へ聞いても"わからない"と言われる。

本人が一番にわからないのだそうだ。

パターン3からすると、パターン1やパターン2は多忙で落ち着きの無い人に見えるのだろう。

パターン3が何だ、という話でもない。
自分は何に属するのだろう、という話でもない。

先のTweetで、個人は有る、と言い切った事が悔やまれたので、弁解。

個人が無い人も居る。

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