0924 別れについて


ついこの間、初めて読書会に参加した。
医学書院が主催する読書会で、よく読む「ケアをひらく」シリーズの読書会だった。そのシリーズの著者と本を読み解いていく会で、各回10人限定で、コラムを書いて応募したら受かったので参加した。

参加したのは、美学者の伊藤亜紗さんと読む「居るのはつらいよ ケアとセラピーの覚書」の回。この本はケアとセラピーの違いについて、実際に沖縄のデイケアで心理士を務める東畑さんが書いたもの。ケアは傷にふれず痛みをへらすもので、セラピーは傷にふれて治療を目指すもの、とか目から鱗の話があるけど、この話は割愛。

読書会のテーマは「別れ」。モデレーターの伊藤さんが経験した祖父の別れや本文中の別れを切り口に、いろいろな「別れ」についてそれぞれ話していった。参加した人の中には実際に医療現場で働く人もいたし、編集者もいたし、小学校の先生なんかもいた。

「別れ」。夫婦間の離婚、家族との死別、学校の卒業…色々な話がでる中で、ある一人が「アルコール中毒になったお父さん」の話をしていた。お父さんとして同じ人には変わりなく、未だに近くにいて存命であるのに、自分の知っているお父さんではない、自分の知っているお父さん”ではなくなっていく”別れについて語っていた。かたや認知症の方とデイケアで関わる女性は「認知症になって本人が色々わからなくなったとしても、それは本人でなくなるわけではなく、あくまでも人としては同じ人である」と話していて、同じように関係性やその人への認知が変わってしまったとしても、それが別れになるかどうかは、どう捉えらのか次第なこともあると知った。

さらにある女性は自分の祖父母が亡くなったことで、直近の離婚の痛みを忘れられたと話していて、一見すれば悲しいことが重なってつらいような状況に見えるけど、なにかまとまって別れを経験することで、それはひとつの「転換点」になって、うまく整理をつけていくためのポイントになるのかもしれない、と思った。

小学校の先生を務める男性は「毎年同じ時期にたくさんの人とお別れすることになる」と話していて、自分自身はもちろん、その別れをどうやって線的なものから円的な別れに捉えさせるかで、そこにケアが生まれるのかも、と話していた。線的な別れというのは、その人との関係性の線があって、それがどこかで途切れてしまうようなある種事件的な別れで、円的な別れは線のように途中で途切れるのではなく、始まりと終わりが繋がっているように、その別れすらもひとつのシステムとして成り立っている状態。学校の先生からすれば円的なものだけど、学生からすれば線的な別れに感じる、この差をどう埋めていくことができるのかで別れに対しての痛みが違うのかもしれない。

こうして60分にわたって10人で別れについて話してたんだけど、ただ同じ本が好きで集まった10人で出会って一時間ないうちに身内の話や自分が感じた痛みの話をすることなんて、こうした読書会みたいなかたちじゃないと中々ないのかも、と新鮮な体験だった。テーブルの真ん中にキーワードをおいて、それにまつわるエピソードや思いを皆のポケットから取り出してテーブルに並べる。色々テーブルに並べたものを見ながら、また皆で話を深めていく。それが見ず知らずの、まったく別の職業とできる機会。結構この体験面白いのかも、と思った。

それとまた、こうしてお互いのことを知らないままに、自分の身内や出来事をつらつらと喋れるのも、ある程度別れを前提とした関係だから話せることなのかもしれないと思った。

「別れ」についてはもっと考えられることも多くて、ただ悲しいものとしてだけの別れじゃなく、ひとつの線的な始まりの予兆としての別れ、換気のシステムのひとつとしての別れ、一方的な別れ、とか色々身の回りの出来事を置き換えて考えてみたい。

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