1006 ショート・ターム見てん

映画、ショート・タームを観た。グループホームで暮らす少年少女たちと職員のやりとりを描いた作品で、そこに登場する人物はほぼ皆なにかしらを抱えている。ぬいぐるみがないと上手く人と接することができなかったり、自傷行為をやめられなかったり、親から見捨てられて孤児になった子だったり…。ただ職員は職員だからといって、子どもたちを管理するような接し方は決してしていなくて。いかに上手に境界を保ちながらケアできるか試行錯誤を繰り返す。職員の一人であるグレイス(ブリー・ラーソン)もまた傷を抱えた一人で、ある出来事をきっかけにまた傷に触れることになる。それはあまりにも大きな傷で、本人の中では傷とさえ思っていなかったなにかだったのかもしれない。このあたりは見てほしい。

最近、臨床にまつわる話だったり対話だったりケアだったりの、いわゆる医療人類学の分野の本を漁り読んでいて、「傷ついた治療者」という言葉を知った。臨床心理医が沖縄を訪れて、沖縄に跋扈するスピリチュアルカウンセリングを、逆に心理士的な視点から暴こうとしする本の中で見た言葉。

「傷ついた治療者」。沖縄にスピリチュアルが広がるのには様々な理由があって、ひとつは、スピリチュアルを通して自分がケアされた経験があるから、人の傷も治してあげたいというもの。もちろんそこにはスピリチュアルならではのウハウハビジネスも絡んでいつつ、そこに参与する人は高い確率で「スピリチュアルで傷を克復した」人であることが多いらしい。えー、と思うけど、看護師や介護師になりたいと話していた友達の言葉を思い返すと、過去それらの人にされたことの恩返しを理由に挙げる人が多かった気がする。

「傷ついた治療者」は、治療者でありながらも、傷は完治していない。目に見える傷と違って深く突き刺さる心の傷や子どもの頃につくられた歪み、それらは自覚しないかたちで本人の奥底に息を潜める。そして、治療者として患者を癒やすことで、その自分を癒やす。癒やしながら、癒やされる。この構造が基本なのだと、その本には書いてあった。

誰かになにかをしてあげるのは、喜んだ顔を見たいからでも、その人の面倒を見たいからでもない。したいから、する。そして、する、ことで、自分は癒やされる。もちろん一方的にただそれだけを続けることだけではないけど、なにかをしてあげることで
、まるで自分をケアするように癒やされる。相手の面倒を見ているようで、相手によって、自分の面倒を見させてもらってる、というややこしい状況になる。

いわゆるクズに引っかかる女性ってたぶんこれだと思ってて、自己肯定感が低いばかりに、誰かになにかをしてあげることで、その自分を肯定する。自分を肯定できる機会をたくさん与えてくれる相手=なにもしなくて、手がかかる男に依存してしまう。そして、自己肯定感が低いばかりに、クズだと気づいてもその相手以外が自分を選んでくれるとは思えず、別れられない。たぶんこういうことなんじゃないか。

治療者、患者の二項対立の関係ではなく、治療者は患者を治し、患者を通して治療者が癒やされる。誰かの傷にふれる時、相手の傷だけではなく自分の傷にもふれることになる。この行ったり来たりの関係性、相互作用によってお互いが強く結びついて、そこには患者と治療者以上のかけがえないなにかが生まれるのかもしれない。

ショート・タームはまさにそんなことを体現したような映画で、必ずしも大人が子どもを教育するのではなく、必ずしも、一方が一方の面倒を見ることではなく、年齢を性別を越えて、お互いの傷を通してお互いの傷を克復していこうとする話。長くなったけど、とにかくいい映画だった。

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