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軽んじないで

毎朝視聴しているドラマ『虎に翼』が、誰かや何かを軽んじることの罪深さを、さまざまな角度から教えてくれています。そして、あのときのあの痛みは、軽んじられたことの痛みだったのだと、何度も気付かされています。

自分の大切な人が、誰かから軽んじられているのを見聞きしたり、もしくはその人自身が自分を軽んじているような言動をとっているのを見ると、胸の奥がずんと痛くなって、それから、ものすごく腹が立ってきます。解せない!許せない!という気持ちでいっぱいになります。
軽んじるというのは、直接的に痛めつけるのと同じくらい、人の心を傷つける行為だと思います。誰かから軽んじられると、親のつけてくれた自分の名前にヒビが入るような苦痛を感じます。

そうは言っても、誰からも一度も軽んじられたことのない人などいないし、誰のことも一度も軽んじたことがない人もまた、いないはず。常にすべての人と重厚に関わり合うことなど不可能だから、生活の中で人と関わることが多ければ多いほど、その都度、誰もが誰かを軽んじてしまう瞬間はあり、そこは互いに無意識のうちに納得し折り合いをつけながら、暮らしているのだと思います。

折り合いをつけられないくらい傷つくのは、自分にとって軽んじられたくない場所、立場で、軽んじられたくない相手に軽んじられたとき、しかもそれが一度や二度ではない場合です。
私にとってある時期の学校生活は、その連続でした。子ども時代は家庭以外の場所が学校しかないから、そこで存在を軽んじられるのは、きつかったです。転校が決まり、みんなに別れのあいさつをするために席を立ったとき、転校するのが私だと分かったとたん、「なーんだ、あいつか」と、実にどうでもよさげに言い放った男子、あなたのことは忘れない。いや、やっぱりこれを機に忘れよう。

大人になった私は、自分を軽んじない方法を知っていて、その一つが、こうして文章を書くことです。それから、音楽を聴くこと、絵を描くこと、ドラマを見ることなど、どれもありふれた趣味ですが、自分で自分の重みをちょうどよく保つための、とても大切な行為です。これらの行為を長期間サボると、本当に命がパサついて軽くなってしまって、暗闇のほうへ簡単に飛ばされそうになるのです。
ここ数年よくいわれるようになった「推し活」も、自分の重みをちょうどよく保つのにとてもいいみたいで、娘が「これが私の推し活」と言って好きなアニメキャラクターの絵を楽しそうに描いているのを見ると、よきかなよきかなと明るい気持ちになります。

そうやって、私の周りの大切な人たちはみんな、誰もが自分の命を軽くしないように、それぞれ工夫して生きているのに、それを他人が軽んじるとは、何事か。許せない。私の娘や、夫や、親や、妹の存在を、軽んじる者や制度は、許せない。それが続くと、もう疲れてしまって、自分で自分を軽んじるように、なってしまうではないか。

娘たちが学校での出来事を話すとき、その中に、軽んじられている気配をちらりと見つけると、どうにも腹が立ってきます。次女は、頼まれると何でも「いいよー」と引き受けてしまうため、何かと面倒事を押し付けられがちなところがあって、そんなエピソードを聞くと、つい、「そんなの、嫌なときは嫌って言っていいんだよ」と、言ってしまいます。それが言えないから、軽んじられてしまうのだというのは、自分が一番分かっているはずなのに。「うちの子を、何人たりとも軽んじないで!」と、世界一の拡声器で叫びたくなります。

『虎に翼』では今、戦後の法の整備が行われています。戦争を経て、誰の命も軽んじない国をつくるため、法の世界をはじめ、多くの人たちが努力を重ねてきたことに、思いを馳せます。そして今も、その努力が続いていることを祈ります。「なーんだ、あいつか」なんて、誰だって、言われていいはずがない。うん、やっぱり、一生覚えておこう。