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私以外私じゃないの

人生の大事なことほど、とても個人的なものだと思います。しかし、そういう大きな場面ほど、物語ではドラマチックに大々的に表現されるから、これまでしばしば、実際の人生と物語とのギャップに驚いて、混乱することがありました。

例えば、婚姻届を出したとき、それから子どもを出産をしたとき、ああこれは人生において、こんなにも静かで個人的なものだったのかと、驚きました。物語のドラマチックな演出が意識にすり込まれていた私は、婚姻届も出産も、その瞬間には、ど派手なファンファーレが鳴り響き、世界中に紙吹雪の降り注ぐような感覚を想像していたのです。
けれども実際は、まるで違っていました。婚姻届は粛々と受理され、市役所を出る前も出た後も町の様子は何ら変わらなかったし、わが子を出産したときも、ひとしきり産声を上げたのちの病室はとても静かで、助産師さんたちの動きはてきぱきと事務的で、物語でない人生の始まりとは、かくも個人的なもので、人生が始まったその瞬間から、あくまでも世界は淡々としているのかと、そのときようやく、人生というものの規模を知ったのでした。
親しい人の死も同じです。物語では大きな山場になることの多い死もまた、生と同じく、現実の人生においては、個人的なことなのだと知りました。人が一人、この世からいなくなったのに、葬儀場を一歩出れば、世界は何も変わりなく動き、花壇の花はいつにも増して鮮やかにすら感じられ、死の喪失感も悲しみも、こんなに個人的な、個々の内側で起こっていることだったのかと知りました。

人生の大切なことほど個人的なことなのならば、「好き」という感情もまた、とても個人的なものなのでしょう。
私は好きな作品に出会ったとき、それに関する感想や考察を読むのが大好きです。考察や感想は、個人的な「好き」の思いを、より深めてくれるからです。しかしその一方で、自分と同じものを好きな人たちが、お店やテーマパークなどに大勢集まって、グッズを買ったり写真を撮ったりしている姿を、第三者的な視点でテレビが報じているのを見るのは、とても苦手です。
そういうものに触れてしまうと、自分の「好き」が、外側からのエネルギーによって侵食され消耗していくようで、「こんなに人気です」「こんなににぎわってます」と報道されればされるほど、嫌気がさしてきます。画面に映っている人たちが嫌なわけではもちろんありません。ただ、私の「好き」は私のもので、とても個人的なことなのに、第三者の目によって、それが集団的なものにされてしまうことへの嫌悪感が、強く芽生えてしまうのです。

私の好きと、ほかの人の好きは、別のものなのに、第三者からは、ただそれを好きな集団として、大まかに理解されてしまう。私の「好き」は自分の中で完璧な形をしているのに、これは外の空気に触れてはいけなかったのに、この感情に第三者の大ざっぱな理解など要らなかったのに。そんな、自分でもちょっとよく分からないタイプの嫌悪感。

人生があくまでも個人的なものであるということを知ってからは、結婚であれ生死であれ、自分の好きなもののことであれ、人生の大事なことを、集団的なものとして大ざっぱに語られているのを見ると、とても落ち着かない気持ちになります。ざあっと大量にこぼれていくお米の一粒になったような、心もとなさを感じます。実際、人一人の存在は、国の規模だか、宇宙の規模だか、そんな大きな目で見れば、そうなのかもしれないけれど、自分にとっての大事なことを通してそれを実感するのは、空恐ろしいことです。

ここまで書いて、つまり自分はどこまでも偏屈で、独占欲が強いのだなと思い至りました。私は私の人生の大事なことを、個人的なこととして独占していたい、私の人生における個人的な重大事項を、集団的なこととして、第三者的な目線で理解されたくない。
つまり今日のこの記事を一言で言うと、『私以外私じゃないの』。