真理の対応説は完全に正しい

信念や判断や文や命題などが真である(正しい)とはどういうことか、という問題に対して、真理の対応説は、「事実と対応すること」と答える。

これは全く当たり前の答えのように思えるが、哲学者の多くにとっては必ずしもそうではない。例えばプラグマティズムを支持する哲学者のほとんど全員が、真理の対応説を否定しているようである。この件について、誤解を正すため初歩的な整理を行い、真理の対応説が正しいことを再確認したい。

ハッキングの『表現と介入』という本によると、真理の対応説に対する批判の定番は、「文に対応する"事実"なるものは、文によってしか特定・同定できない」というものらしい。例えば「トムはアメリカ人である」が真である時に「対応する事実」とは何か。それは、トムがアメリカ人であるという事実である。このような答えは無内容な同語反復であり、説明になっていないのではないか。

いやこれは、言葉と事実との対応を再び言葉で語ろうとしたから、たまたまそうなるだけである。例えば「8個入り」と書かれたお菓子の箱について考えてみよう。箱を開けてみて、8個入っていれば真だし、そうでなければ偽である。これは「事実との対応」の明確な事例である。

ところが、この説明を受け入れない哲学者が多数存在する。彼らによると、箱にお菓子が8個あったというのは、事実そのものではなく視覚(および触覚)表象に過ぎない。従ってそれは、「8個入り」という記載や視覚や触覚や他の人の証言などが一致しているということに過ぎない。これらによって支持されるのは「真理の整合説」のようなものであり、事実そのものはどこにも見当たらない、と言うのである。確かに、視覚像と視覚の対象そのものを比較して一致確認する、という過程は存在しない。

先ほど参照したハッキングは、真理の対応説だけでなく、表象(表現representation)つまり理論や命題中心の科学論に批判的な哲学者だが、真理(や科学)についてのこのような考え方では「実在」に届かず観念論の中に閉じ込められてしまうと批判している。

確かに、間違い可能性を一切許さないような真理概念を採用するならそうなるかもしれない。「真理とは何か?」などという大げさな問題表現だとそのような方向に誘導されそうである。しかし、人間にとって重要なのは、「トムがアメリカ人だというのは本当ですか?」「はい、本当(true)です」というようなやり取りで使われる真理(truth)概念である。プラグマティズムの代表的な哲学者ジェイムズは「真理とはわれわれの現在の必要に答えるもの全てである」という「真理の有用説」を主張し、当時の主流哲学者から笑い者にされたそうだが、真理に「間違いがないことの哲学的保証」などを求めない点ではジェイムズが正しい。

表象(信念・文・知覚など)は、たとえ間違い可能性があっても全く何も無いよりは全然まし、というだけで十分存在価値があり、その機能は環境における様々な制約条件のもとで行動を適切に導くことである。知覚・信念形成・行動制御を含む動物の認知能力は、そのことを目的として設計されている(もちろん神ではなく、自然選択プロセスによって結果的に設計されている)。人間の言語表象でも、記述的機能については同様である(この場合自然選択だけでなくより広い社会的文化的選択プロセスも介在する)。

ただし、プラグマティズムの間違いは、真理を有用性や行為成功などの使用結果によって定義している点である。何の役にも立たない真理がたくさんある?かどうかはともかく、結果で定義するのは正しくない。
真理は、言語や知覚など表象システムの設計仕様によって定義される。一言で言えば、表象システムは表象が真である場合のみ、設計仕様通りの仕方で機能(目的)を果たす
従って「真理の整合説」も正しくない。例えば、ある文が真であることを全ての証拠が指し示し、最後まで何の矛盾も発覚せず、全ての人が真だと思っていたとしても、そのことが「真理」の意味ではない。
表象システムは世界事実に適合するように行動を導くことを目的として設計されているので、「真理の対応説」が正しい。

真理の対応説が批判される主な原因は、批判者の「対応」についての理解が不適切な点にある。対応とは、文と事実とを比較して似ている、というような漠然とした概念ではない。
対応概念のコアは、写像規則に基づく同型写像関係である。
例えば、MP3データ(表象)は音楽(事実)と見かけは特に似ていないが、写像規則によって対応している。特に重要なのは、(この場合)音波の振幅や周波数といった要素の対応に基づき表象と事実とが体系的構造的に対応していることである。もちろんそれによってMP3データの解釈装置(音楽プレイヤー)が可能になっている。
人間の言語についても同様で、「いつどこで誰が何をした」というような文の分節構造が事実の構造に体系的に対応し、そのことが慣習的言語体系および言語能力を可能にしている。例えばある文の「いつ」の部分を別の値に置き換えることで、時刻のみ置き換えた別の事実に対応できる。このような構造が、言語の、いわゆる再帰性よりも以前の最も基礎的なレベルでの構成的生産性(productivity)を可能にしている。

言語についてのこのような同型写像理論の古典は、言うまでもないかもしれないが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』である。論考のこの主張は、後の彼の『探究』によって否定されたわけではない(その点は野矢茂樹さんの言うとおりである)。『探究』の言う通り、言葉は(真理条件の伝達だけでなく)極めて多様な目的で使用される。しかし、言明や主張などの言語行為が設計仕様通りの仕方で目的を果たすのは、その発話が写像規則に基づき事実と体系的に対応する、つまり真である場合のみである。

ちなみにWikipediaに、真理の対応説に対する「批判」が書かれているが、皆さん読んで理解できるだろうか?これが理解困難なのは批判者に「対応」の意味の明確な理解が欠けているからである。
必要なのは「表象システムの設計に基づく体系的同型写像」という正しい理解である。


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