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ペットは往生するのか問題

ネットで時々「ペット(動物)は往生するのか?」ということが議論される。仏教と言えどいろいろな教えがあり、「動物=畜生」だから、往生はしないという理解から、いやいや動物もまた往生できるんだとする理解と、180度違った見解が存在してる。

私は浄土真宗の僧侶だけど、浄土真宗の僧侶でも、それぞれに受け取りが違っていて興味深い。同じ教えを聞いていても、味わい方や、大事にしているポイントに違いがあり、そのような差異が生まれてくるのだろう。

それに、実際に、死後どうなるのかということはわからない。わからないからこそ、いろんな考え方が出てきている。本当の答えは、私が死を迎え、私が往生したときにしかわからないのかもしれない。

なので、私がここに書くことも、そのいろんな考え方の一つであって、決して正解ではない、ということをご理解いただいて、お読みいただければと思う。

そもそも「往生」って?

ペットが往生するかどうかの前に、その前提となる「往生」とはどういうことなのかということに少し触れておく。

「往生」とは広義では、大乗仏教における仏の世界=「仏国土」に往き生まれることである。狭義では、特に阿弥陀仏(阿弥陀如来)という仏さまの世界である「極楽浄土」に往き生まれることを指す。

ここではその「極楽浄土」に生まれることを「往生」として書いていくことにする。

ではなぜ「往生」が求められるのか?実は大切なのは、「往生」そのものではない。仏教の目的は「成仏」、つまり「仏と成る」ところにある。ところが、この私たちが生きる娑婆という世界では、その実現がとても難しい。特に、「末法」とされる時代にあっては、時機(時代と、その時代の人間の資質)が悪く、とても自分の力で、今生で仏と成ることなどできない、という考え方がある(=末法思想)。浄土教と呼ばれる仏教では、その末法思想に基づいていて、今ここでは仏と成れないから、仏と成るために相応しい世界、仏国土に往生し、そこで成仏を目指す、ということが示された。

浄土真宗もその流れを汲む宗派で、大きな特徴の一つは「往生即成仏」ということをいうところにあると言える。本来なら、仏国土は仏と成るための世界、つまりそこで行を行い、証(さとり)を得るというように考えられていたが、浄土真宗では、念仏(南無阿弥陀仏を称えること)の行者、すなはち「信心」を得た者は、「往生」すれば「即」、仏と成るものだと理解されている。なぜならば、そういう「力」が「南無阿弥陀仏」という六字に具わっているからだ。

このあたりの議論は今回の話とは横に逸れてしまうので、とりあえずこのくらいにしておく。そういうもんか、へー、くらいに思っておいていただければよい。

とにかく、「往生」とは、阿弥陀仏の仏国土、「極楽浄土」に生まれること、そしてそこで「仏と成る」ことであるということを抑えておく。

ペットは往生できるのか?

ここからが本題となるが、ペットは往生できるのか。上にも書いたが、浄土真宗の教えにのっとれば、往生できるのは「念仏の行者」であるということだ。それは「南無阿弥陀仏」という念仏を称える者であり、「南無阿弥陀仏」によって、私は仏と成ることができるのだ、ということを聞いている人ということである。

このあたり、実はもう少し複雑で、丁寧に書かなければいけない部分ではあるが、問題となるのは、ペットがそれをできるのか?ということだ。

「南無阿弥陀仏」というのは阿弥陀仏という仏さまが仕上げてくれた、私が仏と成るための「手立て」だ。人間の言葉として作られているものだから、人間向けのものと言ってもいいと思う。つまりそれは動物向けの手立てではなく、「南無阿弥陀仏」をいただいていくという方法では、ペットは往生ができないということになる。

だから、動物の生からでは直接「往生」は実現できない。でも、輪廻を繰り返し、いずれかの生で人間に生まれ、「南無阿弥陀仏」と出会ったときには、仏となれるかもしれない。そんな風に理解することが一つの流れとしてある。

さらっと「輪廻」という言葉を使ったが、仏教においては「輪廻」という考え方が基本にある。私が今ここにいることも、なんらかの輪廻の結果で、仏と成ること、つまり解脱することが無い限り、輪廻を繰り返していく。そしてその輪廻というのは、生まれて死ぬという繰り返しだから、苦悩の繰り返しととらえていく。その苦悩のエンドレスループから離れるのが解脱であり、成仏である。

だから言ってみれば、人間に生まれたのはチャンスなのだ。「南無阿弥陀仏」という言葉、はたらきに出会うことで、その苦悩のエンドレスループから離れられる。往生が求められるという理由はそこにあるのだ。

少し話が逸れたが、基本的な考え方に立てば、やはり動物は往生できない、となってしまう。

阿弥陀仏の救いの対象

もう少し違った角度から動物の往生について考えてみよう。先程から出ている「阿弥陀仏」。この仏さまはすごい仏さまである。なにがすごいって、あらゆる有情(命あるもの、意識あるもの)を救いたい、つまり苦悩から完全に離れた存在=「仏」にしたいという願いを起こし、その願いが間違いないものと成るようにと誓いをたてて、そしてそれを成就(完成)させることによって仏となった仏さまだからだ。

つまり、阿弥陀仏はすべての命を仏にする(できる)仏さまなのだ。すごいとしか言いようがない。

あらゆる有情とか、すべての命とか、ちょっと漠然としているので、どこまでの範囲かということが示された言葉がある。それは「蜎飛蠕動(けんぴねんどう)」という言葉だ。「蜎飛」とは羽虫。蚊みたいな虫のことだ。そして「蠕動」とは地を這う虫、ミミズなんかを想像すればいいだろうか。阿弥陀仏が救いの対象としているのは、なんとその「蜎飛蠕動」まで及ぶというのだ。なんとまあ。

となれば、動物だって、当然阿弥陀仏の救いの対象の中に入ってくることは自明であると言えるだろう。そこから考えれば、動物もまた往生できるのではないか。そのように考えることもできなくはない。

ただ、やはり動物のまま、動物の生から直接救われるとは限らない。阿弥陀仏の「アミダ」という名前には空間的無限、時間的無限という意味がある。つまり、ものすごく時間の感覚が長いのだ。今すぐに、でなくても全然問題ない。今の動物の命からではなく、輪廻を繰り返す中にいつか「南無阿弥陀仏」と出会える生で、というように理解することもできる。そのような考え方でも、阿弥陀仏はすべての命を救いの対象としているということとは矛盾しないのだ。ずーっと見つめ、そして待ち続けてくれているのだから。

そう考えると、動物がそのまま往生していくということは、やはり難しいと言えるのかもしれない。

私が先に

ここまで読むと、やっぱりペットは往生できないのか……という感じがして悲しくなる方もおられるかもしれない。しかし、動物が往生できるのかどうかは、はっきり言って私マターではなく、阿弥陀仏マターなのだ。だから、阿弥陀仏に任せるしかない、という部分はある。

しかし、私たちにとって本当に大切なのは、動物が往生するということではないかもしれない。それよりむしろ、仏教は「私が仏と成る」ための教えなのだから、なにより大切なのは、私が仏と成るということにあるはずだ。

そして、仏と成るということは、ただ単に「苦悩から離れてハッピー」ということだけではない。実は、仏と成ることで、今度は別の命を、仏と成さしめるはたらきとなっていけるのだ!

それはつまり、阿弥陀仏が、あらゆる命を仏にする、とはたらくのと同じように、私もまた、仏と成ることができたならば、同じはたらきをしていくことができる。つまり、私が先に仏と成ることによって、死を迎えて仏とは成れなかったかもしれないペットを、仏に成らせることができるという可能性があるのだ。

だから、まずは自分が仏と成ることが大切なんだ、というように考えることもできる。

『歎異抄』という親鸞聖人の言葉をお弟子の唯円が綴った書物があるが、その中の第五条にそういう考え方とちょっと似た文が出てくる。対象は動物ではなく、父母となっているが、父母がもし輪廻を繰り返しているとしても、私が仏と成れば、縁あるものを救うことができるのだ、そんなことが書かれてある。それはきっと、縁があって出会ったペットにだって当てはまることだろう。

そのペットは本当にただの動物だったのか?

ここまでいくつかの「ペットは往生できるのか」ということについて書いてきた。どの考え方も、基本的には動物の生では、往生はできない、と見る考え方だったと言えるだろう。

しかし、この考え方は少し違う。結論から言えば、ペットも往生、正確に言えば、仏さまに成っているかもしれないという考え方だ。なぜそんなことが言えるのか。

この前のトピックでは、「私が仏と成れば、縁あるものを救うはたらきができるという考え方がある」と書いた。これは「還相(げんそう)」と呼ばれるはたらきだ。ちなみに私が往生するすがたを「往相(おうそう)」という。この「往相」と「還相」はセットになっていて、「往相」、つまり往生し、仏と成ったならば、今度はこの娑婆と呼ばれる世界に還り、仏としてのはたらきをしていく、つまり他の命を救うというはたらきだ。

この場合の「救い」というのは、仏と成るようにしていくということ。つまり、「南無阿弥陀仏」に出会わせるはたらきとなる、というように考えればいいだろうか。私が「南無阿弥陀仏」に出会うこと。そこには、阿弥陀仏という仏さまのはたらきがあると同時に、私のことを願い、私のことを想う、誰かのはたらきがあったと見ていくこともできるのだ。

そう考えるとどうだろう?もしかしたら、あなたの目の前で命を終えていったそのペットは、もしかしたら、あなたに「南無阿弥陀仏」に出会っていってくださいね、と願っている存在なのかもしれない。その「南無阿弥陀仏」に出会ってほしいという願いが、もしかしたら、動物の姿をとり、あなたの前にあらわれ、一時、喜びも悲しみも共有する存在となり、あなたの人生を支え、そして「老病死」の生々しい姿を見せることで、あなたに「南無阿弥陀仏」という言葉に出会い、苦悩から離れた、仏と成っていって欲しい。そんなはたらきかけをしてくれていたのかもしない。

つまり、ペットという動物の姿は、「還相」のはたらきが、私たちの前に表れてくれた姿だったというように受け止めることができないか、ということ。

そうなると、そのペットは元は、仏さまのはたらきなのかもしれないのだ。仏さまのはたらきが、私に「南無阿弥陀仏」に出会わせるために、動物の形となってくれた。そう考えると、そのペットが死を迎えた時には、元のはたらきに戻っていく。つまり、再び仏と成って、私に「南無阿弥陀仏」に出会ってくれよとはたらき続けてくれている。そんな風にも、考えることができるのではないだろうか。

ペットの命を、単なる動物の命と見るのではなく、仏さまが、私に「南無阿弥陀仏」と出会わせるために、仮に動物の姿となってくれた、と捉えることで、実はそのペットはただの動物ではなく、仏さまの世界から来てくれた存在と、受け取ることができるようになる。そう考えれば、ペットは往生できる、できない、という次元の話ではなくなるのだ。

仏として敬う

ここまでいろいろな考え方を書いてみた。しかし、どの考え方が正解なのか、私にははっきり言うことができない。先程も書いたが、これは阿弥陀仏マターなのだから、阿弥陀仏に任せるより他はない。

しかし、私が思うのは、ペットが亡くなってどうなるかはわからないけれど、その亡くなったペットを、私が仏さまとして敬うことはできるのではないだろうか、ということだ。

往生しているか、していないか、仏と成っているか、成っていないかは、いくら考えてもわからない。答えは出ない。

でも、一緒に自分と過ごしてくれたペットを、仏さまとして敬う。そして、その命に対して、手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える。そのことによって、そのペットは、私に「南無阿弥陀仏」を出会わせる一つの縁を作ってくれた存在になるのだ。

それはつまり、そのペットの存在が、ただの動物ではなくなって、私に「南無阿弥陀仏」と出会わせる、仏さまのはたらきになっていくということ。

そのことによって、ペットのいのちは「還相」のはたらきとなり、仏のいのちへと帰っていくものになるのではないだろうか。

誤解なきように書いておくが、私の考えや行為がそのペットを仏にするのだ、ということではない。

そうではなくて、「南無阿弥陀仏」というものに、そういうはたらきが具わっているのではないかということだ。

つまり、ペットを縁として「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える。それによって、私も、ペットも、同じく仏と成る縁が調えられていく。

すべては「南無阿弥陀仏」のはたらきなのだ。

何度も言うが、ペットが動物の生を終えて往生できるかどうか、私には答えは出せない。ここに書いた中に、正解があるのかもしれないし、全部間違っているのかもしれない。

けれど、「南無阿弥陀仏」とお念仏をいただくところに、私も、そのペットも、共に往生し、仏と成る道が開かれている、ということは間違いないこととして、私は受け取っている。

根拠もなにも示さず書きなぐったが、私が浄土真宗の教えを聞いて味わっているところからの一つの考え方として読んでもらえたなら、と思う。


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