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戦後の教育、女性活動を支えたコザの「福祉のマドンナ」仲宗根澄のライフヒストリー

貧しい士族の娘であった澄は、女子師範学校を卒業したのちに教師の道へと進んだ。相思相愛だった夫を20代で失い、沖縄戦のさなかには大家族でやんばるを逃避行。戦後は収容所から教師生活、そして婦人会や福祉などの社会活動に貢献した。
彼女を支え続けたのは、「士族」の末裔、そしてひめゆり同窓会の一員であるという矜恃であった。

 かつて、仲宗根澄先生といえば、中部地区で知らない人はいなかった。特に沖縄市(旧コザ市)で話題が福祉分野に及ぶと「三大マドンナ」として必ずお名前が登場する一人が仲宗根澄だった。
 澄たちが自他共にマドンナと豪語してはばからなかったのは福祉分野で活躍する七十代に入ってからで、世間で言うところの高齢になってからだから正確には「老人クラブのマドンナ」ということになるだろうか。実際にマドンナに名を借りた愛すべきお茶目な行動にも事欠かないエピソードをご本人からもお聞きしたのだが、ここでは割愛する。これらの出来事から、澄やその世代のユーモア溢れる大らかな気性がしのばれた。
 「お話を聞かせて下さい」という私たちに、先生は「仕事が好きで〝はーえーごんごん〟して教員生活に追われてきたようなもので、何も良い話はないですよ」と微笑された。
 「戦争の苦労は大変なものである。ことばでは表現できない。子どもたちもよく生きてくれて、自分もよく生きてくれてありがとうという気持ちである。さんざんくんざんした難儀は、今の若い人には分からないと思う。理解できないだろうと思う。ほんとうに戦争を無くして欲しい。今、総理大臣はがんばってもらわないと。」

「はじめに」より内容抜粋


『人生は、はーえーごんごん 仲宗根澄〈明治・大正・昭和・平成〉百年の道程』大城道子編著他