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言葉から幅が失われたら人間関係もつまらなくなって

言葉が持つ幅についてよく考える。例えば「嬉しい」ひとつとっても、様々な解釈が起きるわけで、受け手によって「素直な反応でいいな」「気持ちが伝わってよかった」「これだけやったのにその程度かよ」などと解釈が違ってくる。そう考えると、当然話し手側にも「嬉しい」に込めた意味の違いはあるわけで、「心からそう思ったから伝えたい」から「とりあえずそう言っておいた方がいいかな」まで、グラデーションを含めれば無限の意味付けがなされているわけだ。

ちなみに、そういった込められた意味や深い解釈を伴った会話を成し遂げるためには、お互いがお互いをどれだけ理解しているか(それだけ理解しようとしているか)が結構大事だったりすると思う。「この人が~と言うときにはこういう意味合いだろう」「この流れで~というからにはこういう見方なのだろう」などの、理解をベースにしたグラデーションの解釈ができて初めて会話に深みが生まれるのだと思う。

話は変わるけど、今の時代は言葉に深みがなくなった気がする。会話がただの記号のやり取りのようになってきた感じだ。それは多分、言葉に責任が伴わなくなっているということかもしれない。思いを言葉に乗せてしまうと、後に責任云々と言われたときに困るから、ただの情報交換としての記号的な言葉として利用されるようになってしまったのではないかな。

そう考えると「そういう意味で言ったのではない」「そう言った記憶がない」「誰かが言ったからそうしただけだ」などの、聞き苦しい言い訳の数々が成立するようになってしまったのも、ある意味仕方ないのかなと思う。

言葉を重んじた時代は、今よりは地に足がついている感覚だったのではと思うと、ちょっと羨ましい(面倒なことも多かっただろうが)。とはいえ、そんなことを言ったところで、何かが変わるとも思えないし、結構しんどいので、そういう世界からは適度に距離をとって、余生を楽しもうと思う。それもまた、責任を取らない世代の象徴のような言い草だけど、そろそろ燃料が枯渇気味なので許してほしい。

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