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開催日割の変遷③ 1992~1995年

何だか【開催日割の変遷】を書いているハズなのに、各年の競馬史になってますね。まぁその年に何があったのか思い出して貰えれば『あぁあの時か、もうそんなに経ったんだな』と理解が早いかと思いますので、このスタイルのままで行かせてもらいます。

1992~1995年の開催日割

今回は92~95年までです。段々と記憶が蘇ってくる時代ですね。それもこれトウカイテイオーやメジロマックイーン、ビワハヤヒデ、ナリタブライアンなど名立たる名馬が跋扈した時代で、私の好きな時代ですから記憶の奥底にあってもすぐに思い出せるのですね。

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前日の繰り返しになりますが、開催日割は左から開催回数開催競馬場開催日数となります。1東京6なら、第1回東京が6日間行われた事を示します。赤字部分は前年から変更された部分で、例年通りに戻す場合はそのまま黒字としています。表の下記の数字は競馬場別の年間開催日数ですね。JRAが発表している開催日割と同じ様な形にしときました。こちらの赤字は開催日数が前年比で減少青字は増加している事を示しています。そのため、表で赤字があっても、年間開催日数が変わらなければ黒字となっている点に留意して下さい。


1992年

92年はマル外の活躍が顕著になってきた年かもしれません。エルウェーウィンがビワハヤヒデを下して朝日杯3歳Sを勝利しましたし、シンコウラブリイはNTZ4歳S、ラジオたんぱ賞、クイーンSと重賞を3連勝し、マイルCSでも2着に好走しました。ヒシマサルはきさらぎ賞、毎日杯、京都4歳特別と重賞を3連勝し、NTZ4歳Sや京都大賞典を2着になるなど長い距離でも走れた一頭です。京成杯のエーピージェットを含み、同年のマル外は重賞8勝を挙げる躍進を遂げます。

一方のクラシックでは、前年のトウカイテイオーに続き、ミホノブルボンが春の牡馬二冠を制覇。菊花賞では刺客ライスシャワーにやられましたが、坂路調教の効果が立証されました。

古馬路線では無敗の二冠馬で骨折休養明けの大阪杯を勝利したトウカイテイオーと、昨秋に不運な競馬を続いた前年の覇者メジロマックイーンとの対決が特に注目を集めました。テイオー鞍上の岡部騎手が『地の果てまでも走れそう』と言えば、マックイーン鞍上の武さんは『こっちは天まで昇りますよ』と応酬したのは有名な話です。結局、メジロマックイーンが史上初めて天皇賞・春を連覇し、鞍上の武さんはイナリワン、スーパークリークに続く天皇賞・春4連覇という偉業を達成しましたが、もうこういうコメントは見られないでしょうね・・川田や福永、松山がこういうコメントするイメージすらつかないですから。

ただ、レース中に骨折したテイオーもプライドを見せ、この年から国際GⅠとなったジャパンカップで優勝します。この年はジャパンC史上最高のメンバーが揃ったと言われるほどレベルの高い年で、同年の英ダービー馬ドクターデヴィアス、2年前の英ダービー馬クエストフォーフェイム、同年の英二冠牝馬で全欧年度代表馬のユーザーフレンドリー全豪年度代表馬レッツイロープ、同年のオーストラリアンダービー馬ナチュラリズムアーリントンミリオンの勝ち馬ディアドクターなどが出走したってんだからスゴいですよね。

現在のジャパンCは、当時とは雲泥の差というか月とすっぽんというか、それほどの差を感じるくらい凋落しておりますが、それでも『日本馬は世界一の質だ!日本の馬場は世界最高だ!だから勝てない外国馬は来なくていいんだ!』と言うのでしょうか。関係者も一部のファンも、井の中の蛙でいいのですか?日本を代表する馬たちが、全欧、全豪の年度代表馬と戦えるのは見たくないと?私は見たいですけどね。それが海外と日本の双方で見れたら、なお嬉しいです。

あとは何があるか、と考えてみれば・・エリザベス女王杯をタケノベルベットで勝った旧藤田はGⅠ初勝利でしたね。また、鉄人・増沢末夫必殺仕事人・田島良保、カブラヤオーとテスコガビーで75年の春クラシックを完全制覇した菅原泰夫などの有名騎手が引退し、3年目の玉ノ井健志騎手が落馬事故による脳挫傷のため死去したのもこの年です。

それからキタシバスペインへの禁止薬物投与により武平三調教師と担当厩務員、馬主の円城正男が逮捕される事件もありましたし、オサイチジョージの主戦だった丸山勝秀がテイエムオオアラシの主戦だった土肥幸広が所有する記念品のメダルを盗み、質屋で換金した事件もありましたね。この丸山勝秀は逮捕、執行猶予付きの有罪判決を受け、騎手免許を剥奪される事になりましたが、いつの時代にも悪い騎手はいるもんです。

そうだ、92年といえばサンエイサンキュー事件がありました。これを忘れてはいけません。事の発端は、前年7月のデビューから10月までの1年3ヶ月の間に14戦を走り、丸2ヶ月以上の休養を挟んだ事のない重賞3勝馬サンエイサンキューについて取材を受けた田原成貴が、疲労の蓄積が著しいのにも関わらず、2度目のトライアルレースに出走する事を強要した馬主について不信感を抱き、素直に体調が思わしくないとコメントをした事です。その時に、取材終了後『これほど悪い事を言ったのだから、勝ったら頭丸めないといかんな』と発言したのですが、その発言を当時その場に居なかったサンスポの水戸正晴記者が取材に立ち会っていたTVディレクターから伝え聞き、翌日の1面に『田原2着以上なら坊主頭になる』という見出しで報道しました。

この内容では『2着以上にはならない』、つまり競馬法に抵触する内容とも取れるわけで、田原は『八百長の誤解を招くような書き方は勘弁してくれ』と釈明したのですが、今度はその発言を『田原謝罪』と報道しました。これには田原は激怒し『又聞きで書かれた上に、事実を歪められたらどうしよもない』として、有馬記念のトウカイテイオーを含むサンスポの取材を一切拒否しました。その後、サンスポ側は取材の仕方が不十分として周囲から非難され、同社の片山良三記者が他誌で自社批判を行って解雇されたもんだから騒ぎは収まらず、同僚の記者も一斉退職するなどフジサンケイグループ全体の騒動に発展したのです。

さすがにコレはないですね。記者が伝聞で記事にしちゃ何でもアリになりますし、田原本人に確認する事だってできたでしょうし、八百長のように聞こえる内容であれば尚更確認は必要でしょう。何より『2着』という言葉はどこから出てきたのでしょうか。ましてや水戸記者は公式会見に寝坊して遅刻し、別途コメントを求めるという失態を犯した上での記事ですよ?寝坊で遅刻→田原のコメント拒否→焦ったところに又聞きで面白いコメント確保→大きく誇張して報道してミスを挽回しようとした、と疑われますって。マスコミがマスゴミと呼ばれるのも納得できますよ。

結局、サンスポは多くの記者を失ったものの、水戸記者本人には何の処分もなく、未だにサンスポの記者をしています。田原はご存知の通り、多くの事件を引き起こしていますが、この事件については何の非もありません

また、サンエイサンキューはトライアル、エリザベス女王杯、有馬記念と酷使され、最後はレース中に骨折して競走中止となりました。この時の怪我は安楽死処分が相当というほどの重傷でしたが、金になるから繁殖として残したいという馬主の強い要望により手術延命措置が行われました。しかし、計6度の手術で馬体を大きく減らし、さらに蹄葉炎も発症して、2年後の94年10月に心臓麻痺で死亡しました。今ならものすごく炎上する内容ですが、当時はこういう馬を物としてしか扱わない関係者が多く居たのです。こうした関係者は3年後に再び現れるのですが、それはまたその時に書きましょう。

開催日割は長かった改修工事が全て終了し、久々に日割変更なしで行われました。6年前の86年以来の事ですね。その時と変わった部分は初春の中京競馬と小倉競馬を恒久的に入れ替えた分のみとなります。開催日割の記事なのに、開催日割以外に焦点を当てるとはこれいかに?

重賞は100R、GⅠは16R、障害・アラブの重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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ペガサスSはわずか5年で廃止されてしまいました。前年91年にアーリントン国際競馬場との提携により交換競走アーリントンCが新設されたのですが、その煽りを受けての廃止は残念過ぎます。せめて名称変更にできなかったのでしょうか。まぁ競走機能を引き継いだ前身レースとなっているのですが。


1993年

93年はクラシック路線が熱かったですね。牡馬はウイニングチケットビワハヤヒデナリタタイシンの三強が注目されました。どうでもいいかもしれませんが、ウイニングチケットが最初なのは個人的には気に入らないです。実績ではビワハヤヒデが一番ですから。そのビワハヤヒデは前年のもみじSとデイリー杯3歳Sをレコード勝ちし、朝日杯3歳Sでも2着と既にクラシックの有力馬とされており、年明けも共同通信杯で2着、若葉Sで1着となり皐月賞に向かいます。一方のウイニングチケットも3歳時を葉牡丹賞、ホープフルSを含む4戦4勝、春初戦の弥生賞も快勝し、無敗で皐月賞を迎え、ナリタタイシンも3歳時の出世レースラジオたんぱ杯3歳Sに勝利し、シンザン記念と弥生賞を2着として鞍上武さんで皐月賞に出走しました。

その三冠レースについては
『歴代ダービー馬、そらで何頭まで言えますか?① 』
https://note.com/boost_quinty/n/na4b92b9333a5
『ビワハヤヒデ死亡』
https://note.com/boost_quinty/n/ne3ab4d2ebe5e
をご覧下さい。書いてたら膨大になりますので、ここではご勘弁を。

さて、牝馬ではベガが二冠を達成しました。馬主の吉田和子さんは、吉田照哉、勝己、晴哉のご母堂にあたる方ですね。トニービン産駒で2戦目を勝ち上がるとチューリップ賞、桜花賞、オークスと4連勝で牝馬二冠を奪取するのですが、オークス後に歩様の乱れが見られたため海外遠征を取り止め、休養に入ります。そこで蹄鉄の打ち替えをする際に装蹄師が釘傷(ちょうしょう)、いわゆる深爪にしてしまい、秋の三冠制覇に暗雲が立ち込めますが、トライアルを回避し、なんとかぶっつけでエリザベス女王杯に出走します。しかし、レースでは他馬と接触するアクシデントもあり、中団から懸命に脚を伸ばすもののホクトベガノースフライトを捉えられず3着に敗れ、史上2頭目の牝馬三冠とはなりませんでした。この時の『ベガはベガでもホクトベガ!!』という実況はいつまでも記憶に残っていますね。

それから前年の天皇賞・春の後に故障で離脱していたメジロマックイーンが復帰し、天皇賞・春三連覇を目指して前哨戦の大阪杯を快勝しますが、本番では刺客ライスシャワーの2着に敗れます。またもハンター的場にやられました。しかし、続く宝塚記念を快勝し、悲願だったグランプリ制覇を達成するとともに、史上初の4年連続GⅠ制覇という金字塔を打ち立てます。さらに、京都大賞典ではレコードを1.9秒も更新する2.22.7というアホなタイムで優勝し、史上初の獲得賞金10億円を突破しますが、天皇賞・秋を前に左前脚部繋靱帯炎を発症し引退してしまいます。これも馬場のせいなのかなぁ。

ちなみに、牝馬の獲得賞金記録もこの年に更新され、ダイイチルビーの記録を安田記念でイクノディクタスが更新し、宝塚記念で史上初となる5億円を突破しますが、秋にシンコウラブリイが毎日王冠、スワンS、マイルCSと三連勝して再び記録を更新しました。

また、トウカイテイオーが一年ぶりの復帰戦となった有馬記念でビワハヤヒデを下し、奇跡の復活を果たしました。これについてはめちゃくちゃ書きたいのですが、ガチで長くなるので止めておきます。残念。

騎手関係では、1月に6年目の岡潤一郎騎手が落馬事故による外傷性クモ膜下出血、頭蓋骨骨折、脳挫傷、脳内出血により死去しました。前年の玉ノ井健志騎手に続く犠牲に悔しくて、残念でなりません。特に岡騎手は4年目にGⅠを勝ち、デビューから毎年40勝以上を挙げてきた若手有望株でしたから、多くのファンが悲しみにくれた事でしょう。それからジャパンCでコタシャーンに騎乗したケント・デザーモが残り100mのハロン棒をゴール板と誤認して、追うのを止めた事件もありました。誤認に気付いたデザーモは慌てて追い直しましたが、再加速する事は難しく、2着敗戦となりました。あのまま追っていたら逆転できた勢いだっただけに残念です。なお、この事件によりJRAは残り100mのハロン棒を撤去しています。

他には、野平富久調教師が名義貸しに加担したとして調教師免許を剥奪されました。何でも馬主が名義貸しを行い、その借りた相手が暴力団で、それを知っていながら管理馬を出走させたそうです。かつてスピードシンボリで天皇賞・春を制した野平一族の調教師だったのですがね。

それと10月に美浦トレセンに坂路コースが完成しました。ただ、栗東より距離が短い上に頂上部分も短いために栗東の坂路より負荷が掛けられない、美浦の調教師がノウハウを構築できないなどの理由により、今もって西高東低を覆すには至っていません

開催日割は中京競馬場の馬場改修工事に伴い、第1回中京は小倉に、第2回中京は京都に振り替えられました。また京都への振り替えとなりましたが、京都は翌年に大規模な工事を控えているので、ここで目一杯使い倒しておくつもりなのでしょう。中京が大規模な改修をするのはまだまだ先の話です。

重賞は100R、GⅠは16R、障害・アラブの重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。前年に続いて大きな変化は無く、開催振り替えによる変更があったのみですね。

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1994年

94年はシンボリルドルフ以来となる三冠馬が誕生しました。ここも書くと長くなるのではしょりますが、びっくりローテで朝日杯3歳Sを制したナリタブライアンは、年明けの共同通信杯、スプリングS、皐月賞、ダービー、菊花賞、有馬記念を勝利し、年度代表馬に選出されました。同馬については、いずれどこかで書きたいと思います。この馬には、というかこの調教師には言いたい事が山ほどありますから。

牝馬ではクラシック以外から女傑が誕生しましたね。ご存知ヒシアマゾンです。前年の阪神牝馬3歳Sをレコード勝ちしたマル外牝馬は牡馬相手の京成杯で2着に入ると、クイーンC、クリスタルC、NZT4歳S、クイーンS、ローズS、エリザベス女王杯と6連勝でGⅠ馬の仲間入りを果たし、有馬記念では上記のナリタブライアンの2着に食い込む活躍を見せました。ちなみにヒシアマゾンと大接戦を繰り広げたチョウカイキャロルはブライアンと同じくブライアンズタイムの初年度産駒です。ダビスタでは大変お世話になった種牡馬のデビューはこの年だったんですね。

古馬路線は、ナリタブライアンの兄であるビワハヤヒデが快進撃を見せ、京都記念、天皇賞・春、宝塚記念、オールカマーを快勝し、宝塚記念では生涯4度目となるレコード勝ちを記録しました。しかし、天皇賞・秋では5着に敗れると、レース後に屈腱炎が判明し、そのまま引退となりました。兄弟対決を望んでいたファンや関係者が落胆した事は言うまでもありません。私はかなり落ち込みました。

それから騎手関係では、武さんがスキーパラダイスでフランスのムーラン・ド・ロンシャン賞に勝利し、JRA騎手初となる海外GⅠ制覇を達成しました。さらに前年のイタリアダービー馬でキングジョージと凱旋門賞で2着だったホワイトマズルにも騎乗し、キングジョージを狙いましたが2着、凱旋門賞では3番人気ながら6着に終わりました。この時は海外メディアからかなり叩かれましたね。個人的には勝てる騎乗だったかどうかと言われれば批判の対象となりますが、その時の全力を出すという競馬をするなら良い競馬だったと思います。

また、同年から外国人騎手への短期免許制度が始まりました。これが日本人騎手の転換期になるとは誰も思わなかったでしょうね。取得第1号はリサ・クロップ、続いてアラン・ムンロオリビエ・ペリエと初年度は3名が短期免許を取得し、ムンロはホッカイセレスで府中牝馬Sに勝利しました。

柴田政人騎手が引退したのもこの年です。ダービーを勝ったら引退と言って憚らないくらいの気持ちが見事にダービー制覇に繋がりましたが、4月の落馬事故により頸髄不全損傷、左腕神経叢損傷の重傷を負い、何とか騎乗できるまで回復したものの、思うとおりの騎乗が出来ないとの理由で9月に引退を発表しました。死ななかっただけ幸いです。

他には、調べてみたらグリーンチャンネルの試験配信が始まったのは、この今年でした。衛星放送なんてなかなか敷居が高い時代なので、全く記憶にありませんでしたよ。それからウィキを覗いていたら『競馬学校を事実上強制退学させられた女性が日本中央競馬会を提訴』とありましたが、そんな事あったんですね。今度調べてみます。

開催日割は京都競馬場のスタンドおよび馬場改造工事に伴い、第1~4回を全て阪神に振り替え第1回と第4回阪神を中京に、第1回中京を小倉に振り替えれました。この工事でグランドスワンが完成したそうです。再開後の第一週に菊花賞が行われたので、個人的には菊花賞は何が何でも京都で行うもんだと思っています。また、函館競馬場のコース改修工事に伴い、第1回函館を札幌に振り替えています。この工事ではスパイラルカーブが導入され、さらに芝が100%洋芝に変更されましたね。その影響で9月の第1回函館でダートのみの施行となり、函館3歳Sもダートで行われました。

重賞はクラシックトライアルとダートが2Rずつ増えて104R、GⅠは16R、障害・アラブの重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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重賞にする必要があるのか疑問ですが、クラシックのトライアルのOP競走として行われていたチューリップ賞と青葉賞がGⅢに昇格しました。それからダート重賞競走整備の一環で平安SとマーチSが新設されました。現状の15Rからすればまだ少ないですが、ダート重賞では4R、5R目です。フェブラリーSがGⅡに昇格しているように、ダート路線が整備され始めた時期ですね。
あと地味に阪神牝馬特別がGⅡに昇格していますね。


1995年

95年はいよいよサンデーサイレンス旋風が巻き起こります。前年の朝日杯3歳Sを制した大将格のフジキセキが早々にリタイアすると、その後方にいたジェニュインが皐月賞を、タヤスツヨシがダービーを制覇し、しかもそれぞれ1,2着を分け合う形となりました。さらにオークスではダンスパートナーが、暮れの朝日杯3歳Sではバブルガムフェローが優勝し、その他サイレントハピネス、サマーサスピション、サンデーウェルなど早くから多数の重賞馬を輩出するなど、サンデーサイレンス世代の到来を告げた年となりました。

古馬では5冠馬ナリタブライアンが年明け初戦の阪神大賞典を7馬身差で圧勝しますが、股関節炎を発症し春は全休となります。復帰した秋も調教が全く足りず、天皇賞・秋で12着、ジャパンCで6着、有馬記念で4着と5冠馬の面影はありませんでした。これについて大久保調教師がかなり叩かれましたが、私も同意見です。大久保先生は『レースに出走させることによって競走馬を鍛える』との信念があるそうですが、それってGⅠという大きな舞台に向けて行うならともかく、GⅠの舞台でやる事じゃないでしょう。しかも成績が上がったから間違ってないと強弁しますが、結局、馬券にも絡めずに秋3戦を終えたわけで、何を目標にしていたのか全く理解できませんね。今思い出してもイライラします。

女傑ヒシアマゾンは海外遠征を行いますが現地で左前球節捻挫に見舞われたため、レースを回避して帰国。復帰戦の高松宮杯を5着とすると、オールカマー、京都大賞典を圧勝し、ジャパンCでランドの2着に食い込みます。続く有馬記念ではマヤノトップガンの5着に敗れますが、牡馬混合の重賞2勝とジャパンCでの好走が評価され最優秀5歳以上牝馬に選出、さらにシンコウラブリイから歴代賞金女王の座を奪いました。

マックイーンの天皇賞・春三連覇を阻止した後に低迷期が続いていたライスシャワーは天皇賞・春で見事に復活を果たしますが、後述する阪神・淡路大震災の影響で、京都で開催された宝塚記念のレース中に左第一指関節開放脱臼粉砕骨折による非業の死を遂げました。あれは泣きました。診療所に運ぶ事すらできず、幔幕の中で安楽死の措置が執られ、去っていく馬運車に鞍上の的場が頭を下げて見送ったわけですから。後に買ったライスシャワーのビデオにそのシーンがあれば宝物になったんでしょうけど、さすがにそのシーンはありませんでした。

それから同年は海外遠征が目立った年でもあります。前述のヒシアマゾンもそうですが、藤沢和先生のクロフネミステリーがディスタフHCに、森先生のスキーキャプテンが日本馬として史上初めてケンタッキーダービーに、ダンスパートナーがフランスのノネット賞、ヴェルメイユ賞に挑戦しましたが、2着が最高で勝利を挙げる事はできませんでした。しかし、前々年に国際GⅢ、前年に国際GⅡに昇格した12月の香港国際C(現香港C)に挑戦したフジヤマケンザンがハクチカラ以来36年ぶりとなる海外重賞制覇の快挙を達成しました。国際化の大きな波が押し寄せた一時でした。

競走馬関係ではアラブが廃止されたのもこの年です。顕彰馬のセイユウを称えるセイユウ記念もシゲルホームランの三連覇を最後に廃止となりました。アラブは軍需産業の一環でしたし、生産頭数が少なかったサラブレットを補い、一年中開催される日本競馬に耐えうる存在として重宝されましたが、これも時代の流れなんでしょうね。

あと個人的にすげぇなと思うのがラガービッグワンの12週連続出走です。何がここまで掻き立てたのでしょうか。ダビスタでもできませんでしたよ。

他には、地方競馬との交流が本格的に始まった地方交流元年でしょうかね。この年より全てのGⅠレースを指定交流競走とし、中央・地方の双方がダート路線を整備、拡大する事になりました。そこに現れたのが笠松のライデンリーダー、鞍上は後に中央で勝ちまくるアンカツです。地方馬でありながら4歳牝馬特別(現フィリーズレビュー)を勝利した同馬は、桜花賞で1番人気押されながら4着に敗れるものの、オークスの権利を獲ります。オークスを1番人気で13着に敗れると、秋はローズSで3着に入り再びGⅠの挑戦権を獲得しますが、エリザベス女王杯では14着に終わりました。また、同馬以外にも高崎のハシノタイユウが皐月賞、笠松のベッスルキングが菊花賞、JRA推薦という形でトミシノポルンガが宝塚記念に挑戦しますが、いずれも大敗していますが、扉が開かれたという点では評価して良いでしょう。

一方の地方競馬では中央のライブリマウントが無双し、平安S、フェブラリーS、帝王賞、ブリーダーズゴールドC、南部杯と連勝しました。南部杯では岩手の古豪トウケイニセイと名勝負を繰り広げ、一時は条件付で年度代表馬に推す声もありましたね。ちなみにエンプレス杯でホクトベガが18馬身差の圧勝を見せ、翌年のダート界を席巻する足掛かりにしています。

騎手関係では、岡部幸雄がJRA史上最多となる通算2017勝を達成し、河内洋は史上最年少・最短で1500勝を達成し、武さんは史上最年少・最短で1000勝を達成しました。すごい兄弟弟子です。また、英国最高峰の障害レース、グランドナショナルに田中剛が日本人として初参戦しましたが、第一障害で落馬してしまいます。あと、珍しいところでは、保田隆芳調教師が勲四等瑞宝章、布施正調教師が黄綬褒章をそれぞれ受賞しています。競馬関係者が叙勲を授かるとは大変名誉な事ですね。


そしてこの年は先にも触れましたが、阪神・淡路大震災が発生し、多くの被害がもたらされました。正月も終わった1月中旬の明け方、まだ寒い就寝時間に発生した地震は、死者6,434人、負傷者43,792人、行方不明者3人の被害を出し、東日本大震災が起こるまで戦後最大の自然災害となりました。

日本競馬においても阪神競馬場周辺の被害が大きく、駐車場や歩道橋は崩壊し馬場も20cmほど陥没するなど大きな被害を受けましたし、京都競馬場やウインズ神戸などの施設も被害を受けました。しかし、心の広いJRAは厩舎側の宿泊施設を近隣住民に開放し、約500人を受け入れていました。社会貢献とはこういう時に差が出るのです。

こうした被害を受け、京都競馬は週末の開催を休止し、その分は6/3,4に震災復興特別競馬として実施されました。そこで行われたレースが前述の宝塚記念です。震災の復興を願って行われた開催で、最も位の高いレースで壮絶な最後を遂げる馬が出るなんて夢にも思わなかったですね。ただ、この開催の収益24億円は震災復興のために拠出され、最終的に59億もの金額が震災復興のために充てられたそうです。

この震災の影響を受け、開催日割も大きく変更されています。まず、阪神競馬場は補修工事のため12月まで開催できません。そのため第1~4回阪神競馬は全て京都に振り替えられています。京都競馬場は42日間連続開催となり、90年から91年にかけて行われた40日間連続開催を超える長期開催となりました。また、福島競馬場の馬場改造工事に伴い、第1,2回新潟を福島に、第2,3回福島を新潟に振り替えられました。このあとしばらく福島競馬場で開催は無く、次の開催は2年後の夏となります。

重賞は一増一減で104R、GⅠは16R、障害・アラブの重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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東京新聞杯は積雪の影響でダートに振り替えられており、その影響で重賞格付けを外されています。エルコンドルパサーの共同通信杯と同じですね。
また、短距離重賞の路線整備が行われ札幌スプリントSが新設されました。同じく翌年からNHKマイルCが新設される事に伴い、この年でNHK杯が廃止されました。それからサラッとオールカマーがGⅡに昇格しています。さらに、翌年のエリザベス女王杯の古馬開放、秋華賞の新設に伴ってローズSが繰り上げ開催となったため、サファイヤSもこの年で廃止ととなりました。


④に続く

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