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歴代ダービー馬、そらで何頭まで言えますか?①

いやぁ歳を取りたくないもんですね。1989年のウィナーズサークルから2007年のウオッカまでは何とか言えたのですが、ディープスカイ以降は名前は出ても順番が分かりませんでした。2008年のジャパンCではメイショウサムソン、ウオッカ、ディープスカイという3世代ダービー馬が激突した事もあったと言うのにね。あの頃はまだ海外遠征しても勝負になるような馬は少なく、国内で有力馬同士がバチバチやりあう楽しい時代だったのになぁ。

まぁどの世代も色々な思い出がありますが、せっかくなので覚えている限りの思い出を書き残しておきましょう。もう家族の名前がパッと出てこないお年頃だからね・・・

ウィナーズサークル

さて、キリよく90年代から始めようかと思いましたが、1989年にはあのウィナーズサークルがいるのです。どのだよ?というツッコミはしないで頂けると助かりますが、ウィナーズサークルは史上唯一の茨城県産のダービー馬なんですね。今も昔も北海道以外の生産馬が重賞取るのは少ないですが、まさかの茨城というU字工事が怒りそうな場所から天下のダービー馬が輩出され、さらに芦毛のダービー馬も史上初という事で非常に記憶に残っております。ちなみに同馬は芝唯一の勝利がダービーという珍記録も持っています。晩年は生まれ故郷の茨城で過ごし、2016年に大往生を迎えました。

アイネスフウジン

続いて1990年のダービー馬はアイネスフウジンです。いきなり大物ですね。ダービー後に故障引退したので成績的には朝日杯とダービー、共同通信杯の重賞3勝止まっていますが、ダービーはレースレコードの2.25.3で逃げ切っていますし、東京競馬場の入場者数が196,517人という世界レコード記録するなど違う意味で記録を持っています。今じゃGⅠでも10万も入れば良い方なんですが19万ですよ?東京競馬場がある府中市の当時総人口が約21万人なので、府中市の滞在人数が一時的に倍になったようなもんです。

また、当時にしては珍しく、ゴール後にスタンド前から引き上げる形になったのですが、その際に鞍上の中野栄治(現調教師)にナカノコールが起こった事も有名ですね。オグリキャップが有馬記念を勝った際のオグリコールや新進気鋭の天才騎手武豊に対するユタカコールなどもありますが、GⅠの勝利者に対するコールの起源と言われています。さらにわずか2年でダービーオーナーとなった馬主の小林正明氏が、1998年に集団自殺するなど話題に事欠かなかった馬です。

トウカイテイオー

1991年のダービー馬で、私が始めて好きになった馬トウカイテイオーは7冠馬である皇帝シンボリルドルフの初年度産駒です。だからという事もありますが、名前的にも貴公子のような存在でしたね。3歳(現2歳)の12月にデビューしてトントントンと3つのOP競走で勝利を収めると、無敗で皐月賞と日本ダービーを制します。特にダービーでは大外20番枠からの勝利で、まさに皇帝の息子という力をまざまざと見せ付けての二冠達成と言えます。ちなみにダービーまでの鞍上である安田隆行は、今は調教師としてあのロードカナロアやドバイWC2着のトランセンド、スプリントGⅠ2勝のカレンチャンなどを管理しています。

ダービー後は骨折のため菊花賞には参戦できず、惜しくも三冠馬の夢は断たれてしまいますが、翌年の復帰戦大阪杯を快勝すると、続く天皇賞・春で当時の現役最強馬であるメジロマックイーンと対決します。安田隆行から乗り替わった岡部幸雄が『地の果てまでも走れそう』と言えば、マックイーンの鞍上武さんは『あっちが地の果てなら、こっちは天まで昇りますよ』とコメントした事は良く知られています。このレースの軍配は長距離の鬼マックイーンに上がるのですが、テイオーはレース前からの骨折が発覚し、秋まで休養することになります。

天皇賞・秋で復帰した際は、調整がギリギリになったとのコメント通りに万全の状態とは言えず7着に敗れていますが、翌月のジャパンCで、欧年度代表馬ユーザーフレンドリーやクエストフォーフェイム、ドクターデヴィアスという2頭の英ダービー馬、全豪年度代表馬レッツイロープと豪ダービー馬のナチュラリズム、アーリントンミリオンを勝ったディアドクターなど【レース史上最高メンバー】を相手に見事勝利を収めます。このレースは同年から国際GI競走に認定されており、トウカイテイオーは日本競馬史上最初の国際GI優勝馬となりました。

その後、有馬記念では下剤服用の影響で11着と大敗し、さらに年明けには左中臀筋の故障で休養に入りますが、3月に帰厩した際に3度目の骨折が判明するという不運が続き、結局、復帰は364日ぶりとなる有馬記念まで延びる事になります。同レースは同年のダービー馬ウイニングチケットや菊花賞馬ビワハヤヒデ、同年のジャパンC馬レガシーワールド、前年に春秋グランプリを制したメジロパーマー、同年の春の天皇賞馬ライスシャワー 、同年牝馬二冠のベガ、前年の朝日杯3歳Sを制したエルウェーウィンなど、テイオーを含めて14頭中8頭がGⅠ馬、4頭がGⅡ馬、2頭がGⅢ馬という豪華なメンバーでした。そうした面々を相手に、テイオーは中団待機から早め進出で前を行く1番人気ビワハヤヒデをねじ伏せて勝利するというパフォーマンスを見せ、後に『奇跡の名馬』と呼ばれるようになりました。私の中ではコレで不動の名馬になった感がありましたねぇ。

翌年も現役を続行するという今では考えられない選択を見せたテイオーですが、春初戦の大阪杯を前に再び故障で戦線を離脱。宝塚記念を目標に切り替えるもすぐに4度目の骨折が判明し、再び休養に入るものの、結局状態が思わしくないという事で引退となりました。

この流れ、引退後に発売されたVHSの【トウカイテイオー 奇跡の名馬の物語】で何度も見ましたね。引退を決める直前、牧場で乗り運動をしているテイオーを松元先生が見に行くのですが、その動きを見て引退を決意したというシーンがあって、夕日をバックにゆっくりと走っているテイオーが今でも印象に残るほどキレイなシーンだったのを覚えています。

引退後は種牡馬として活躍するかと思いきや、サンデーサイレンスの猛威が襲来した時期と重なってなかなか産駒成績が伸びませんでした。一応、2002年にトウカイポイントがマイルCSを、2003年にヤマニンシュクルが阪神JFを制しますが、トウカイポイントは騸馬ですし、テイオーのサイアーラインは消滅しました。それだけが残念でなりません。

ミホノブルボン

前年のトウカイテイオーが長くなってしまいましたが、こちらは短く終わりそう。1992年のダービー馬ミホノブルボンは『坂路の申し子』という二つ名があるように、故戸山為夫先生の信念で作り上げた名馬です。

ブルボンの父マグニテュードはそれまで桜花賞を含む重賞5勝のエルプスやコガネタイフウを輩出しており、1999年に高松宮記念を勝つマサラッキがいるように短距離を得意とする種牡馬でした。母のカツミエコーは地方の下級条件馬という事もあって、決してクラシックを戦っていけるような馬とは言い難く、ブルボンは700万円で取引されるほど評価は低かったそうです。そうは言っても祖父はミルリーフですし、母系の3代前の曾祖母カミヤマトは4歳(現3歳)牝馬として唯一有馬記念を制したオークス馬のスターロツチの妹ですし、全く長いところがダメというわけでもなさそうなんですが。

そうした低評価でトレセンに入厩したブルボンは、鍛えて最強馬を作るという戸山先生の信念の下、徹底的に鍛え上げられ、導入されたばかりの坂路で古馬を凌駕する好タイムを連発するまでに成長します。すると低評価はどこへやら、1番人気で9月のデビュー戦を迎える事となり、さらに出遅れながらも上がり33.1の鬼脚で、58.1というレコード付きで快勝してしまいます。もうアホかと。現代ならともかく90年代前半で上がり33.1を繰り出す新馬がどこにいますか。また、意外な事に3歳(現2歳)時は逃げずに番手で競馬をしているんですね。朝日杯も2番手から早め先頭で後続を抑えて勝っていますし、決して逃げ一辺倒ではありませんでした。そのため、しっかり育てればとんでもない名馬になっていたかもしれないと今でも思います。

翌年のクラシック戦線ではしきりに距離不安が指摘される中、スプリングSでは逃げて2着に7馬身差をつける圧勝劇を見せます。皐月賞では渋った馬場の中、最初の1000m59.8秒でペースで進み、淡々とリードを保ったまま2馬身半差で快勝、ダービーも稍重の馬場を果敢に先頭に立って2着に4馬身差をつける圧勝します。まさに影をも踏ませないとはこの事ですね。前年トウカイテイオーに続いて無敗の二冠馬に大いに盛り上がったものです。

怪我もなく秋初戦を迎えたブルボンは、京都新聞杯を2.12.0の日本レコードで逃げ切り、シンボリルドルフ以来となる無敗の三冠馬に王手を掛けます。しかし菊花賞では逃げ宣言をしたキョウエイボーガンの2番手でレースを進めるも、ハンター的場均とライスシャワーに屈し2着に敗れてしまいます。その時、戸山先生は『どうしてミホノブルボンを信じることができなかったのだ』と鞍上の小島貞博を諭したそうですが、逃げたというより暴走に近かったキョウエイボーガンを追いかけたら2着どころか掲示板も無理だったでしょうし、2着でも従来のレコードを更新するタイムで走っていますからねぇ。『キョウエイボーガンが競りかけてこようとも最後までペースを落とすな。自分のラップを刻んで、力で押し切れ』という指示からして根性論が跋扈する時代を感じますね。

菊花賞の後は脚部不安で休養に入りますが、休養中に骨膜炎を発症し、その後、骨折まで見つかるという不運に見舞われます。さらに戸山先生の逝去に伴って2度転厩をするものの、結局復帰は叶わず引退となりました。もったいないですね。血統的な背景もあって種牡馬としては活躍できなかった点も残念ですが、ダビスタで何度もコテンパンにやられた思い入れのある一頭です。

ウイニングチケット

今度こそは短くまとめたい。1993年のダービー馬ウイニングチケットは名手柴田政人にダービージョッキーをプレゼントした馬として有名です。同馬のデビューは9月の函館新馬。今の感覚ならまずありえない函館デビューですよ。しかも5着に敗れるという結果では、誰も翌年のダービーを勝つとは予想できないでしょう。

ところがどっこい、連闘の新馬を快勝すると、葉牡丹賞、ホープフルS、弥生賞を連勝し、一躍クラシック候補として名乗りを挙げる事となります。ただねぇ、戦前から戦後も三強対決と持て囃されましたが、私はビワハヤヒデをずっと応援していましたし、ナリタタイシンは武さんが騎乗していたので、あまりウイニングチケットの記憶はないんですよね。1番人気の皐月賞でナリタタイシンに敗れた時点で、鞍上が鞍上だし、クラシックはないなと思いましたもん。そのため、ダービーでも1番人気になった事に『そんな人気なるんか?』と疑心暗鬼でしたし、飛んでくれて大いに結構という気持ちでレースを眺めてましたね。

しかし、予想を裏切る勝利でダービー馬の栄冠に輝くわ、柴田政人はダービージョッキーになるわ、ビワハヤヒデはまた2着だわで、ガックリと沈んだのを覚えています。当時の競馬場の友人も、ナリタタイシン派とビワハヤヒデ派、ウイニングチケット派に分かれていて、レース後にボロクソに言われましたねぇ・・懐かしいです。あの友人ももう生きていないだろうなぁ。

その後、京都新聞杯を勝つものの、菊花賞ではビワハヤヒデに惨敗し、続くジャパンCではコタシャーンの世紀の大チョンボがあったにも関わらずコタシャーンにアタマ差の3着、有馬記念では『奇跡の名馬』の後ろでひっそりと11着に敗れ、以降3戦するも勝つ事はできませんでした。この尻すぼみ感を見ると本当に『騎手にダービーを取らせるために生まれてきた馬』はいるもんだなと思いますね。

ナリタブライアン

さぁここが問題だ。長くなりそうだから要点だけ絞っていこう。ナリタブライアンは『シャドーロールの怪物』で史上4頭目の三冠馬。以上。

で、終われたら一番良いんですけどねぇ・・ブライアンといえば色々な逸話が残っていますが、私の記憶で残っているのは、やはり天皇賞・秋以降の6戦でしょうか。怪我をするまでは本当に怪物らしい強さを見せ付けた馬なんですが、私の中では復帰してからもがき苦しむ天才というイメージが強いのです。特に調教師との揉め事がクローズアップされており、うまく行っている時は良くても、悪くなった時に本性を現す大人の典型に当たったなという残念な気持ちが先に来るのですよ。

だって全治2ヶ月の股関節炎で5歳(現4歳)春を棒に振ったまでは仕方ないとして、その後の診断を受けた4月上旬から約1ヶ月も厩舎で静養、それから早田牧場に戻るという選択は『なぜ早く休養させないんだ』と思いますよ。療養が終わって函館で乗り込んでる時もしっかりとした運動をせず、栗東に帰厩してからも強い調教はほとんどなく天皇賞・秋へ出走するってんだから、そりゃマスコミも調整不足を指摘しますよ。しかもそれで結果が出れば良いですけど、全く出てませんからね。

それについて私の心の師匠である大川慶次郎先生は『「あれほどの馬を状態が悪いのに使ってくるわけがない」と信じていたが、間違いは調教師自身の見識にあった』『あれだけの馬を調教代わりにレースに使うのは間違いだ』と痛烈に批判していますし、元騎手の岡部幸雄氏も『函館で見た時は(強い調教もできず)もうカムバックは難しいと思った』『あれだけ強かった馬をただの馬に下げてしまう行為で、日本のホースマンの感覚はその程度のもの』と批判しています。まともな感覚を持っているホースマンなら、そう思うのは当たり前だと思いますし、私も当時観戦していて大久保先生は何やってんだと思いましたよ。

例えば、GⅠ1勝馬ぐらいなら状況によっては分からんでもないのですよ。しかし、仮にも牡馬三冠馬で有馬記念も勝った名馬ですよ?競走馬の価値というものを分かってない事は明白ですよね。特にオトコ馬は種牡馬としての価値も考えなければいけませんし、ただ大レースを勝てば良いわけじゃないのです。

そうした批判に対する大久保先生のコメントは『レースに使うことで競走馬を鍛えるという信念から出走した』『ジャパンCも有馬記念も成績が上向いたのは使って良くなっていったから。だから間違いだとは思わない』だそうです。そもそも原理原則として勝つつもりじゃなければレースには使わないってルールがあるじゃないですか。今もあるよな?死文化されていようがなんだろうが、やっぱり【レースに使う=勝負できる状態にある】じゃなきゃいけないと思うのですよ私は。それはクラスが上がれば上がるほど顕著にならないと公正競馬じゃなくなりますからね。

また、成績が上向くのは使った効果なのは間違いないでしょうが、問題はそれぞれのレースで勝負できる状態だったのか否かです。天皇賞・秋でブライアンを見た岡部氏は『全然、覇気がなかった』と言っていましたが、大久保先生の理屈なら18着から15着、12着と着順を上げたらOKという事ですし、それなら勝つ気が無いのにレースに使ったという事になりますよね。三冠馬に対して随分と酷い扱いじゃないですか?レースは調教をするところではなくて勝負をするところという点を理解していないのかな。

翌年には阪神大賞典でマヤノトップガンと歴史的な名勝負を繰り広げ、天皇賞・春では2着ながら復活が近い内容だったのに、次に使ったのがその年からGⅠに昇格した高松宮杯(芝1200m)ですからね。そこを使った理由が『本当に強い馬は距離やコース形態を問わず勝てるはずだ』という信念の下だったというから、ブライアン外れ引いたなぁと思いましたよ。ホントに誰でも思いますって。リアルタイムで見ていたファンなら誰しも『大久保先生アタマ大丈夫か?』と思ったでしょうし、レース後の『盛り上がったでしょう?』発言は、今だったら大炎上ですよ。この発言に比べたら、浜中の『もういいでしょう』なんて可愛いもんです。

さすがに大川先生も『「本当に強い馬は距離に関係なく勝てるはずだ」という思想は競馬番組の距離体系が整備されていなかった昔の考えであり、ひどい時代錯誤だ』とブッタ切ってますが、私は藤野広一郎氏の『ひとのエゴによって悲しきピエロにまで貶められた偉大な馬』という表現がグサッと刺さりましたね。もうね、一競馬ファンとしてブライアンに謝りたいです。こんな人を調教師にしてゴメンなさい、と。そういえば実際にブライアンに謝ってくるって行ってブライアンに会いに行った友人が居たけど、会えたんかなぁ?まぁそれくらい大きな出来事だったし、JRAが必死に距離体系を整備したのを現役最強馬を抱える調教師がガン無視した事も衝撃的でしたよね。

タヤスツヨシ

どうしても書いてると長くなってしまいますね。短く短くしないと。1993年のダ-ビ-馬タヤスツヨシはサンデーサイレンスの初年度産駒にして初のダービー馬です。

当時はサンデーの現役成績は広まっていたものの、種牡馬の墓場とまで言われた日本生産界においては全くの未知数であり、傾向すら掴めなかった記憶があります。ただ、同じ初年度産駒のフジキセキが朝日杯を勝った事で、サンデー産駒は能力はあるという認識に変わり、タヤスツヨシも2歳時を初重賞のラジオたんぱ杯3歳Sを含む3-1-2-0の成績で終え、一躍クラシック候補となりました。

しかし、人気を背負った共同通信杯、若葉Sでは勝ちきれず、評価を落としてしまいますが、クラシックのド本命だったフジキセキが故障引退した事もあって皐月賞では4番人気2着となり、続くダービーを1番人気で迎えます。そして直線で前を行く皐月賞馬ジェニュインをあっさり交わすと、いきなり父サンデーに初のダービー勝利をプレゼントする事ができました。

ところが単勝3.1倍というダービーのオッズが示す通り、絶対的な存在でなかったタヤスツヨシは、秋の神戸新聞杯、京都新聞杯をいずれも1番人気で馬券圏外に破れると、菊花賞ではオークス馬で果敢に菊花賞に挑戦したダンスパートナーにも先着を許す始末で3連敗を喫します。その後、屈腱炎を発症して春シーズンを迎える事なく引退しました。

数多のダービー馬の中で【ダービー後の成績が振るわない】典型の馬で、ぶっちゃけ数字以上に人気は無かったと思います。特に翌年以降もサンデー旋風が吹き荒れる事になりますし、徐々にそんな馬いたねぇという扱いになっていく悲しい馬とも言えますね。


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