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【読書】『もの言う技術者たち』

メルトダウンじゃないだす

東日本大震災による福島原発災害で、僕たちはテレビにかじりつきました。
原子炉がメルトダウンしているのではないか、という疑いがだんだん濃厚になっていき、やがて僕もメルトダウンを確信せざるを得なくなったのですが、世間の論調は必ずしもそうではありませんでした。
テレビでは「メルトダウンは起きていないと思う」と述べる学者が多数で、ネットでは「メルトダウンだという奴は馬鹿だ」と放言する者さえいました。
この状況は、とうとう政府がメルトダウンを認めるまで、変わらなかったのです。

パニックを避けるためにも、政府がメルトダウンを認めるのが難しいのは、理解していました。現場で確かめることができない以上、確実視できるデータが揃うまではメルトダウンを認めることは難しかったのです。
しかし、限定的なデータであってさえ、メルトダウンを強く疑わざるを得ない状況で、多くの「専門家」がそれを否定していたのです。
これはどういうことだろうか、と暗澹たる気持ちになったのを、よく覚えています。

専門家とは誰か

この1月に出版された『もの言う技術者たち』の巻頭に出てくるのは、当時いち早く「メルトダウンが起きている」ことを唱えた原子炉設計技術者でした。そういう数少ない専門家がいたことを僕も覚えています。
しかし、テレビなどでメルトダウンを否定し続けた「専門家」の多くは、原子力工学や原子力発電にかかわる、研究者や大学の先生が多かったと記憶しています。実際に物を作る技術者は、ほとんど登場しませんでした。酷い時は理論物理学の先生だったりしました。

工学者でも設計者でもよいのですが、一般市民の知識が及ばない分野について、専門家の説明は絶対に必要です。しかし、頼れる専門家が誰なのか、ということを見極めることも、多くの人には困難です。
僕は飛行機屋ですが、テレビを見ていると、航空事故の解説に大学の先生が出てくることが多いことに、ずっと当惑していました。大学の先生は、飛行機が飛ぶ理論などには詳しくとも、事故にかかわる運用や設計などの事情に通じているとは限りません。
また、「軍事評論家」と称する人たちが、軍用機だからと言って飛行機の話をすることも多いのですが、航空工学は軍事学ではありません。(そもそも軍事学とは何なのでしょう?)政府やメーカーの宣伝資料で覚えたことを、そのまま垂れ流して「有識者」のように振る舞う人がほとんどです。

商品として流通する「知識」は、誰のために語られているのでしょうか。

専門家=知識人ではない

スペインの思想家オルテガ・イ・ガゼーは『大衆の反逆』(1929)の中で「技術者や学者こそ大衆の典型である」と述べています。
やや論旨が分かりにくいですが、複雑化した社会を専門分野で支える良き職業人であることは、すなわち大衆の一部をなすことであって、「知識人」とは職業や肩書に拠るのではない、ということでしょう。

これに対してパレスチナの思想家エドワード・W・サイードは『知識人とは何か』(1994)において、「現代の知識人はアマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会の中で思考し憂慮する人間のことである。」と述べます。
自分の領分から外に出て、ものごとを相対化して眺めることをしない「専門家」や、企業や政府のお抱えとして知識を売る「専門家」ではなく、市民の側に立ち、権力に対してもの言う者が「知識人」である、というのです。

ファシズムや全体主義の台頭を憂慮したオルテガも、西欧の植民地世界観や資本主義の暴力に抵抗したサイードも、時代を代表する知識人であったことは明らかですが、彼らの言うような「知識人」というのは、稀有な存在です。

市民としての専門家

さて、本記事で触れる書籍『もの言う技術者たち』に出てくるのは、企業に勤める市井の「技術者」たちが、社会に向き合ったとき、なにをすべきだろうか、を考えた話です。
この本で扱われている「現代技術史研究会」は、原子力発電所や化学プラントなどを手掛ける、さまざまな企業の技術者たちが、個人として集まった団体です。雇用されている企業の利益や、自らの処遇を気にするのでなく、一人の社会人として、自らの専門分野における問題を考えたのです。

当然、会社とは折り合いが悪い団体ですから、多くの人は匿名で機関誌に記事を寄せ、公害問題に関する考察や、資源問題への論考などを発表しました。場合によっては会社への背信行為とも見られかねない活動ですが、企業に雇われる技術者でありつつ、良心を持つ一市民として、こうした活動に参加した人たちがいたのです。

「現代技術史研究会」のメンバーは、必ずしもサイードの言うような「知識人」ではないでしょうが、市民的良心に基づいて声を上げる「専門家」として、現代社会においては貴重な人たちだったと思います。
複雑な技術に囲まれた社会では、専門分野が限りなく細分化されてしまい、一人一人が視野に収めることができる世界は狭くなる一方です。最近のコロナ禍においても、ウイルス学者や医療従事者が、ワクチンや検査法などに関して、まったく誤った見識を流布しているのを目にします。
こうした社会においては、「現代技術史研究会」のように市民の立場に立つ専門技術者の存在は、過去にも増して重要なのではないかと思います。


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