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『ゴジラ-1.0』は、本当にゴジラでなければならなかったのだろうか……?

第96回アカデミー賞で視覚効果賞に輝き、世界を驚かせた『ゴジラ-1.0』だったが、実は公開前から山崎貴監督の選んだテーマ性にモヤっと感じる部分があって、鑑賞をためらっていた。ところがゴールデンウィークに合わせたタイミングでAmazon Primeでの配信がスタートし、まあ重い腰を上げて(とはいっても出かけはしないが)視聴してみよう、と思ったしだい。このところ発熱が続いていたものの、38度線を巡る攻防のフワフワした意識のままで観てみるのもいいんじゃないか、という病時ならではの没入感への期待もあった。結果としては、ヘッドホン集中モードで鑑賞した『ゴジラ-1.0』のエンドロールの直後に、どうしても確かめたくなって庵野秀明の『シン・ゴジラ』を(せっかくなので『シン・ゴジラ:オルソ』で)全編おさらいし、さすがに疲れたので一夜のインターバルをとってから、今度は『ゴジラ-1.0/C』でじっくりと観てみた。そして、公開前に感じていたモヤモヤは、まだ残っている。

いや、映画としての『ゴジラ-1.0』は、よく撮れていた。東宝が課した「ゴジラ映画70周年記念作品」という命題に、オリジナルの時代設定から遡ってリブートするという禁じ手のようなアプローチも、こんな機会でなければ許されなかったかもしれない。VFX出身の監督だけあって、揺れ動き、降り注ぎ、飛沫となって散る「水」を多用したCGの表現は素晴らしかったし、音楽の使い方や全体的な音響設計も秀逸だった。特に咆哮に関しては、歴代ゴジラ映画の中でもナンバーワンだと思う。つまり本作のゴジラは、巨大すぎないサイズ感の中に十二分な強さと怖さと理不尽さを詰め込んだ、生誕70周年を記念するに値するゴジラだった、

それなのに、なにがモヤっているのか。

山崎貴が『ゴジラ-1.0』に込めたテーマは、こういうことだ。敗戦ですべてを失ったところに、荒ぶる祟り神としてのゴジラが襲いかかり、ゼロどころかマイナスからの再起動を強いられた日本の、市井の人々。瓦礫の中から立ち上がり、生きて抗うことでしか、再生の未来は見えない。それは、ある者にとっては「自分の戦争を終わらせる」ことであり、ある者にとっては「託された小さな命とともに生きる」ことであり、ある者にとっては「貧乏くじを拾いにいく」ことであり、その先にしか、それぞれの、そして皆の、未来はない。だから皆、自分の生き方、自分の抗い方で、ゴジラと向き合う。

そこに、モヤモヤの理由がある。そこで「それ、ゴジラでなくてもよかったんじゃない?」と感じてしまうのだ。例えば、前段の文章をそのままに、ただ「ゴジラ」を「富士山大噴火」と置き換えて、読んでみてもらいたい。それでもテーマは成立してしまうし、それを山崎貴ならではのVFX表現で最先端のディザースター映画に仕上げていたなら、ひょっとしたらアカデミー賞では視覚効果賞だけでなく、監督賞や脚本賞まで獲れたかもしれない。とにかく本編を鑑賞したら、公開前から感じていたモヤモヤが、そんな違和感として具体化してしまったのだ。

ただ、いったんはそこで、自分を疑ってみた。それって、どの「ゴジラ映画」だって似たようなもんじゃなかったの? それを確かめるために、間髪を入れず『シン・ゴジラ:オルソ』を観ることにしたのだが、その時点では「せっかくなのでモノクロ版で、要所要所の台詞と演出を確認しながら……」くらいのつもりだった。それなのに、気が付いたら色のない『シン・ゴジラ』であることなど忘れたまま、ラストシーンでシッポの先の人型を見ていた。

確認できたことは、二つある。ひとつは、東日本大震災での福島原発の事故に対するメタファーとしてのゴジラでしか、あの最適解へのシミュレーションは成立しなかった、ということ。公開時のキャッチコピーでは「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」と謳われていたが、実際には「仮説(理想のニッポン)対現実(ゴジラ=フクイチ)」だったわけだ。フクイチを擬人化し得るキャラクターなんて、ゴジラ以外には考えられない。世界でただひとつの被爆国である日本が生み出した、核の象徴としてのゴジラでしか、あの世界観は表現できないのだ。もしも庵野秀明がウクライナ人だったら、チェルノブイリで『シン・ゴジラ』を撮っていたかもしれないし、いままさにキーウで『シン・ゴジラ 2』を撮っているかもしれない。その場合のゴジラは、もちろんロシアのメタファーだ。深紅の熱線を吐くことだろう、おそらく。

そしてもうひとつは、脚本にスキがない、ということ。300人を超えるキャストの大半が早口でしゃべり、セカセカと歩いて場面ごとの解釈の余地を与えないという演出スタイルには(実際にオルソ版であることを忘れてしまうレベルで)否応なしに引き込まれてしまう。随所に「謎」は散りばめられているのだが、伏線はしっかりと回収され、ストーリーの流れにはよどみがないのだ。

その点で山崎貴の脚本は、どうだろう。そもそも「ゴジラでなくてもよかったんじゃないか」という点は前述の通りだが、それ以前に、なぜ敷島は特攻から逃げたのか、なぜ典子は明子を捨てなかったのか、なぜ橘は敷島を許したのか、匂わせているようで、実はどこにも描かれていない。だから、画面の暗転が多用されるたびに、観ている方は考えてしまう。せっかくのめり込んだ作品の世界線から離れたいとは思っていないのに。そして(ここがいちばん引っかかった部分なのだが)ゴジラを沈めたあと、海神作戦に命を賭した寄せ集めの面々は、なにに対して敬礼を送ったのか。それも、幸いなことに戦争を経験せずにいられたはずの、水島までもが……。

レッドカーペットを歩いた人と自分を並べるのも失礼だとは思うが、山崎貴監督とは同学年にあたり、隣接した地方の出身者であり、高校を卒業して上京したという点でも共通項が多い。つまり、時代ごとに見てきた景色は、だいたい想像できる。特撮でいえば『ウルトラセブン』はテレビの前に陣取ってリアルタイムで観ていたが、その前の『ウルトラQ』と『ウルトラマン』は再放送しか知らない。親の代は幼いころに疎開を経験したかもしれないが、家族や近い親戚から従軍経験を聞かされた可能性は高くない。そんな世代だ。もちろん、直接の体験や熱量の高い聞き伝えに頼らなくとも説得力のある物語を紡ぐのが、ストーリーテラーの仕事だ。しかし、似たような時代背景を積み重ねて成長してきた自分には、この『ゴジラ-1.0』に描き出された「戦後」は、説得力に欠けていた。時代劇というなら実際に「時代劇」でもあったわけだが、どこか江戸時代の場面のように、書き割りの中で人情噺が描かれていたようにも見えたのだ。

だからこそ、感じてしまう。そのドラマを撮るなら、ゴジラでなくても……いや、ゴジラでない方がよかったんじゃないか、と。

比較した『シン・ゴジラ』では、あの日のことを、もちろん脚本を書いて総監督に就いた庵野秀明自身を含めて、多くの人がいまだ鮮明に覚えているところにリアリティの土台があった。ちなみに、シリーズ第1作である1954年の『ゴジラ』ではキャッチコピーとは別に「水爆大怪獣映画」のサブタイトルが冠されているのだが、現実のビキニ環礁での(原爆ではなく水爆を使った)核実験で第五福竜丸が被曝したのが3月で、それを受けて制作された『ゴジラ』の公開は、同年の11月だった。つまり、作り手にとっても観客にとってもこのオリジナルの『ゴジラ』は、戦後の日本を襲った水爆の象徴としてのゴジラを、その脅威を上回る人類の叡智で海底深く封じ込めるのだが、そんな科学の力が戦争に使われることのないよう尊い犠牲が払われるという反戦、反核の作品だった。そこには、とてつもなく重いテーマと、強いリアリティがあった、と思う。

『ゴジラ-1.0』には、その重さと強さがなかった。もちろん戦後の日本を生き延びようとする市井の人々のドラマは、重たくもあり強くもあるのだが、それは決してゴジラの重さと強さではなかった。

というか、実はこの『ゴジラ-1.0』では鑑賞しながら何度も泣かされたのだが、それはこれまでのゴジラ映画ではほとんど経験のないことだった。具体的には(と書いてしまうと気恥ずかしいのだが)子どものころにただ興奮しながら観ていた古いゴジラ映画はともかくとして、大人になってから観たゴジラ映画で涙が出たのは『シン・ゴジラ』のクライマックスで特殊建機部隊の第1小隊が全員殉職となった場面と、第3期ミレニアムシリーズのメカゴジラ連作で、最後にメカゴジラがゴジラとの心中を選んで海に沈んでいく場面くらい。もちろん『シン・ゴジラ』のその場面で頭をよぎったのは自衛隊のドラマではなく、あの日の福島で命を賭けてフクイチと闘ってくれた人たちや、現実の政府に勇気があればこんなにも長く故郷を追われることのなかったであろう人たちのことだ。

ミレニアムの方は、シリーズ第26作と第27作にあたる『ゴジラxメカゴジラ』と『ゴジラxモスラxメカゴジラ 東京SOS』を通じて描かれたのがジェームズ・フレイザーの『金枝篇』における「祭司殺し」のモチーフに、精神分析におけるエディプスコンプレックスを絡めたような構図だったと気が付いてしまったから。これじゃ観てない人にも読んでない人にもわからないと思うのでネタバレな蛇足を付けると、この2作でのメカゴジラは(厳密には「3式機龍」なのだが)1954年にオキシジェン・デストロイヤーで海に沈んだ初代ゴジラの骨格を東京湾から引き上げ、メインフレームとして組み込んだ対ゴジラ特殊兵器で、つまりゴジラの骨格=金枝を持つことによって力を得た状態だ。ところがゴジラと対峙するや骨の中に残るDNAが暴走し、目の前の怪獣が自分の父親である初代ゴジラの血を引くものだとわかってしまう。しかし、金枝を持って祭司の地位=平和を得るためには、当代の祭司=目の前のゴジラを殺す必要がある。そして3式機龍は、人類の平和を確実なものとするために、また父親殺しのジレンマや自らの中に残るDNAを封印するためにも、ゴジラとともに海に沈むことを選ぶのだ。ああ、まるでサムズアップしながら溶鉱炉に沈んでいくT-800みたい……。

……だいぶ話が脱線したので、本題に戻ろう。オリジナルの『ゴジラ』がそうであり、また『シン・ゴジラ』がそうであったように、歴代のゴジラ映画では、作品ごとのテーマは「それがゴジラ映画として描かれる必然性」と、密接にリンクしていた。まあ子どもたちの声援に迎合した昭和ゴジラのドル箱期には、親バカになったり、ギャグのポーズを決めたり、尻尾を抱えて空を飛んだりもしたわけだが、それでも「ゴジラである必然性」という最終防衛ラインだけは守られていたと思う。だって、宇宙の果てから頭が三つもあるドラゴンが飛んできたり、チェンソーの悪魔みたいなサイボーグ怪獣なんかが攻めてきちゃったら、そりゃ地球を守れるのは「みんなの友だち」になったゴジラしかいないでしょ。ミニラやアンギラスだけじゃ瞬殺だもの。

そういう視点で考えると、やはり『ゴジラ-1.0』は、ゴジラでなくてもよかったんじゃないか、としか思えないのだ。

ここまで書いて、ふと気が付いた。本作で世界にも名を売った山崎貴の監督としての出世作といえば、国内で多くの賞を獲った『ALWAYS 三丁目の夕日』だろう。個人的には、西岸良平の原作マンガで十分に満足していたこともあって、映画はスルーしていた。ただ、あの2作目の『ALWAYS 続・三丁目の夕日』で、たしか山崎貴は初代ゴジラに客演させてたな、と。

で、確かめてきた。作品の冒頭、売れない小説家の頭の中で展開する、たちまち反故になったダメダメな物語のシーン。なんの必然性もなくフルCGで登場した初代ゴジラは、狂言回しに使われることすらなく、愛宕山あたりを瓦礫の山にして、完成した東京タワーをぶった切っただけだった。

ゴジラは、特撮番付においては、押しも押されぬ東の正横綱であるはずだ。そりゃ親会社の意向もあるので、併映仲間であるハム太郎のためには着ぐるみ役を買って出るし、世界のコラボ大王として知られるハローキティと組まされれば赤いリボンで耳も飾るわけだ。ただ、それでも本編で描かれるゴジラは、いつだって大横綱の扱いだった。それが『ALWAYS 続・三丁目の夕日』で山崎貴の手にかかると、カメオ出演したただの怪獣になっていた。

『ゴジラ-1.0』では、押しかけエキストラとなった橋爪功のノンクレジット出演が話題になっているが、実際の登場シーンは2秒ほどと短いものの、画面の全体を支配するような強いオーラを、レンズはしっかりと捉えていた。さすがの存在感だし、そこにはリスペクトがあった、と思う。

それなのに山崎貴は、本作の主役であるはずのゴジラに対して、リスペクトがなさすぎる。自分の描きたい戦後の人間ドラマのための、道具にしかなっていない。自由自在に表現できるフルCGのゴジラだからといって、便利なスパイスとして使い倒していいわけでもなかろうに。それではまるで、ハリウッド版のクソゴジラだ。そして、山崎貴の描きたかった戦後の人間ドラマ、という点で見れば、敷島は竜之介だし、典子はヒロミで明子は淳之介だ。艇長は、芝居がかった口ぶりまでが社長にそっくりじゃないか。これじゃまるで『ALWAYS 三丁目の夕日』の人情噺をカリカチュアライズするために、ゴジラを使って焼き直したみたいじゃないか。

それを、他人の褌で相撲を取る、という。しかも『ゴジラ-1.0』で便利に使われた褌は、日本のポップカルチャーが世界に誇る、大横綱の褌だ。

やっとモヤモヤの正体が見えた。それは違和感ではなく、怒りだ。少し前に「仮面ライダー生誕50周年記念プロジェクト」としてリブートされた『仮面ライダーBLACK SUN』を観たときに感じた怒りと、同じ感情だ。原典からリアルに年月を重ねて、自らに老いることを強いてきた中年の仮面ライダーと、老いることすら許されなかった若い日のままの仮面ライダーが対峙する、という設定は斬新だったし、差別/共生とか信念/現実とかいった対比の構造が盛り込まれていたのもよかった。ただ、あの監督とあの脚本家は、そこに学生運動の歪みとか政治の闇とかを、強いモチーフとして被せてきた。いや、いいたいことがあるのは分かる。でも、それは他所で、そのテーマ性ときちんと向き合って、やってくれ。自己表現のために「仮面ライダー」を使わないでくれ。ベッドシーンさえあればどんな設定でも許されていた、往年の日活ロマンポルノじゃないんだから。

山崎貴はこの『ゴジラ-1.0』で、本当はなにを伝えたかったのか?

わざわざ、あんな思わせぶりなラストで作品を締め括ったのであれば、きちんとその続きを見せて、そこで答えを出してほしい。

[了]

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