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30年目にして母と分かり合えたこと

昨年くらい頃からチグハグなやりとりが増え、認知症が出てきたか?とみんなに思われていた実母。

父が呼んでも反応しないので耳鼻科にかかったところ、ほとんど聞こえていないことが判明しました。

加齢のためもあるのですが、両耳とも鼓膜に穴もあり、膿もあって、中耳炎の末期のような状況とのこと。
点耳薬などで様子を見るも、聴力回復なく、補聴器を検討することになりました。

最近の補聴器はデジタルで、ゆうに片耳10〜20万円はします。
さすがに自腹はキツイということ、聴力の回復も望めないということで、支援法やその他福祉制度を活用することになりました。

手帳の相談っていうと、私は即「福祉事務所」と思うのですが、これは区市町村で違うみたいで墨田区は区役所の「障害福祉課」が担当、ということで、久しぶりに墨田区役所へ。
結婚して実家を出て30年近くなるし、区役所も立派になってるし、スカイツリーで知名度も上がってるけど、やはり「墨田区」って聞くと、ホッとするのは「ふるさと」だからかな。

窓口では担当者が手話を交え、私のUDトークと併用してスムーズなやりとり。
しかも、まさかの、私を知っている方だった。

こんなシールがあることも知り、さっそくゲット!

ヘルプマークに貼るさまざまなシール
ヘルプマークの白十字部分に「耳マーク+耳が不自由です」シール

手帳申請と並行して補聴器の相談をしたいと、実家近くの補聴器屋さんに問い合わせをしたところ、出会ったのが「まごころ補聴器」さん。
https://www.kikoeru.jp/

こちらの困りごとに寄り添い、なんとかしたいと言ってくださいました。

そして、いざ、試用!

なんと母の目から涙が。
「聞こえる!」

そして、
「ずっと寂しかった、、」と。

不便でも不自由でもなく、「寂しい」と。

そうなの!

私も聞こえなくなって一番感じたのは、「寂しい」ってことなんです。
聞こえない世界は静かで、周りの騒がしさに惑わされることなく、静かに落ち着いていられる
そう思われるかもしれません。
でも、実は、周りの音や人の声、たとえ自分に関係ないものであっても、それらが耳に入ってくることで、「自分は1人じゃない」って思えるのです。
そして、人と人のつながりに「言葉のやりとり」が大きな役割を果たしているから、その人の声がないということは、そこに人の姿が見えていたとしても、やはり孤独を感じてしまうのです。

三重苦のヘレンケラー女史は《もし神様が、私に三つの苦しみの中から一つだけ取り去ってくださるとしたら、私は迷わず、 聞こえないことによる苦しみを真っ先に取り去っ てくださるようお願いするでしょう。》(出典不明)と言ったと言われてます

人間は外界からの情報の8割を視覚から得ているとされているのに、「見えるようになりたい」より「聞こえるようになりたい」なんて、なぜ?って、私も思いました。

しかもケラー女史の数々の名言には、「見えない」ことについてはかなりポジティブな言葉が多くあるのです。

盲目であることは、悲しいことです。
けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです。
目に見えるものは移ろいやすいけれど、目に見えないものは永遠に変わりません。
世界で最も哀れな人とは、目は見えてもビジョンのない人です。

さらにこんなことまで!

光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうが良い。

パッと並べただけで、なんだか「見えない」という逆境を跳ね除けるような強さを感じます。
でも「沈黙の世界」をポジティブに語る言葉はほとんどなくて、、。

そこには「音」が大きな働きを持ち、それが、「人」にとってどれだけ大切なものであるか、という思いが見える気がします。

一つ、音は周囲と自分を結びつける情報になります。
視覚情報は目に入らなければ(視界に入らなければ)伝わりませんが、聴覚情報は、全方位、かつ離れていても伝わることができます。
寝ている時、サイレンのランプは見えなくても、音なら入ってきます。
前を向いて歩いていても、後ろから来る車のクラクションは聞こえます。
つまり、音は命を守る大事な情報源になるのです。

そしてもう一つ、音は、人と人とを結びつける情報になります。言葉のやり取りは、信頼や絆の構築に欠かせないものであり、そのやり取りはまだまだ音声優位で、「生の声を聞く」「自分の言葉で話す」ことが大事、とか言われてしまいます。(実際は言ったそばから消えていく音声の言葉より、文字にした言葉の方が間違いなかったりするのですが)

つまり、ケラー女史の言葉は意訳するならば、
「たとえ目が見えて、周りの様子や人の顔が見えたとしても、言葉が交わせず孤独なまま生きるよりも、たとえ目が見えなくて、周りの様子や人の顔が見えなくても、言葉を交わし、信頼し合える友人と共に生きたい」ってことなのだと。

もちろん、どっちの、どの障害が一番辛いか、シンドイか、みたいな話ではありません。
ただ、「聞こえないこと」って本当に軽く捉えられてしまうんです。
「見えないよりマシだよね」って、何度言われたことでしょう。

だから、「聞こえない」って、不便なだけでなく、孤独なんだよ、寂しいんだよ、ってことを分かってほしい。
ずっとそう思ってました。

その想いを、まさか、聞こえない世界に入って30年も経ってから、実の母と共有できるなんて!

偉人のことまで引っ張り出してしまいましたが、、、。

ともあれ、この年になっての私たち母子の「共感」が、嬉しいような、照れくさいような、そんな気持ちで、つい「少しは私の気持ちがわかった?」って悪態ついてしまった私ですが、これを機に、私も改めて補聴器、試してみることになりました。
新しい世界が見えてくる、、でしょうか。

まごころ補聴器さんの店頭でチャンプも一緒に

いただいたサポートは私の人生を支えてくれた聴導犬をはじめ、補助犬の理解啓発のための活動に生かさせていただきます。