認知が歪んでいましてよ
実のところ先週は、ちょっとしんどい週だった。
来月楽しみなイベントが一つ決まり、早速企画で動き出したのだが、一緒に取り組む人たちが、ちょっと、もう、なんか、すごい(語彙力)
準備のスピード感も早く、企画LINEではみなさんのアイデアが炸裂し、クリエイターという生き物の躍動感を目の当たりにしている。
そんな中、司会を申し渡され、自分に務まるのかそんなの、と怖気付き、気づけば卑屈になっていた。
人間、一旦ネガティブスイッチが入るとなかなか復旧しない。
誰も責めてやしないのに、人の行動を見て勝手に責められている気になり、心の中で惨めさの座敷牢に入っていた。
あまつさえ弱音を吐き、一緒に取り組むメンバーに気を遣わせて、フォローしてもらう始末。
なんとまあ、格好の悪いことで。
でも、転んだら転んだなりに綺麗な小石を見つけて立つのが僕である。
今回のことを、「調子が悪かった」で終わらせないために、深く潜って考えた。
またやってしまうなら、これは相当ダサいし痛い。再発防止が急務である。
まず大前提として、人が優れているのと、自分が劣っているのは関連がない。忘れてしまいがちだが当たり前のことである。
人を褒めたり、認めることで、自尊心は減ったりしないのだ。心が弱ると、これを忘れる。
人を褒めた分、自分の良いところも認めていいのだ。
次に、人が優れていることで、自分が責められているように感じる時、責めているのは誰か?
自分自身である。
人の行いが素晴らしく、自分も憧れるものであればあるほど、自分が惨めに感じるのは何故か。
心が勝手に戦いを挑んで、勝手に負けを感じるからである。
何故勝ち負けを示したいのか。優れているものは二つと存在してはいけない、負けてはいけないと、思い込んでいるからだ。そういう世界で、生きてきた。だいぶ剥がしたつもりだったけど、まだあった。
そんな思考の癖に、今回気づいた。
人が優れた行動をする。すごいなと思う。そこまではいい。
でも、相手がその行動の後に、「なんであなたはやらないの?」「こんなことがなんでできないの?」と自分に問いかけてきているような気がするとしたら、
「それってあなたの妄想ですよね。」とひろゆきなら論破するだろう。
こればかりは切り捨てていい。卑屈は何も生まない。
現象自体にはいいも悪いも無い、ただ、自分の解釈が現象の捉え方を良くも悪くも変える。
そんな「ものの見方」を、この本に教えてもらった。
いいパフォーマンスをするには、自分が上機嫌でいる必要がある。能力を高めるのも大事だが、持っているものをいつ何時でも発揮できることの方がさらに重要だ。
そして、自分で自分の機嫌を取るには、何が起きても、瞬時に発想を転換するアホさが必要だ。
そんな、アホに近づける本です。
この本は、いろどり書房さんにおすすめしてもらいました。
これは自分で選んでは買えない本だなぁ。こういう形で救ってもらうとは、思わなかった。
これから、今日みたいにへこんだ時は、次こそ救いに行こうじゃないか。
深く沈んだ心に、ユーモアというサーチライトを投げかけて。
そして自分に、こう言葉をかけるのだ。
「認知が歪んでいましてよ」ってね。
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