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否定というアンカー

なんか前回と似た話だなぁ、と我ながら思うのだけれど、座右の書に『名人伝』があるからか、
 「何かを極めながらも、どこかでその価値を否定する観点を持っているタイプの達人」がものすごく好きである。

何かに邁進して、上達していく過程は、裏を返せば自分の可塑性を捨てていく過程でもある。

若い頃はあらゆる可能性を有し、何にでもなれる全能性を有するが、年を重ねるごとに一つ一つ道を選択していくと、可能性はそれだけ狭まる


と、いうことになっている。常識的には。

50の手習い、みたいな言葉があるように「何か気になることにトライするのは何歳まで!」みたいなのはそれを極めようとか考える場合のみであって、やってみたいならやってみれば良いのだ。

その逆に、何かを身につけたらそれを活用せねばならない、のような勘違いも根深くある。


例えば、僕は一応歯科医師免許を持ってはいるが、それが歯科医師として仕事をしなければならないこととイコールかというと、そうではない。

魚屋をやったって、Youtuberを目指したっていいし、炭焼きの職人に弟子入りしたり、猟師をやったり、選べる道は実は全然狭まっていないのだ。

ただ、世の中的にはそこに「掛けた時間✖️掛けたお金」という計算式が介在するから後に引けなくなってくるだけの話である(笑)

そこのところを自然に冷静に、心を鎮めて選択することを忘れたくないなと思っている。

それが冒頭に書いた「否定」に繋がってくるのだ。

人は何か武器を身につけると、それを使いたくなってしまう。

得意な料理、お決まりのパターン、勝つためのセオリー

磨いて輝くものができたら、それを使える場面が来て欲しいと思うのは人情であるが、その感情が思考の柔軟性を奪うのではないかといつも考えてしまう。

病理医をテーマにした漫画『フラジャイル』にそういう話があった。
 腹痛を訴える患者の病因が、自身の専門の自己免疫疾患にあるのではないかと疑った消化器内科医が、その証拠の特定に躍起になるあまり診断を過ち、却って患者を危険に晒す。というエピソードだ。


専門性を磨くのはとても素晴らしいことであるが、自身の専門分野しか見えなくなることほど危険なこともない。

いつも目の前の現象をそのままに捉えながら、自分の得意分野のケースであっても、自分が知り得ない何かの可能性を心に留め置く。

ふと気づけばこういう冷めた自分が、傍で自分をいつも見守っている。

また、何かを身につけてそれが答えだと思っても、時折自身の思考の癖や価値観を点検する目を持っておきたいなと思う。

過去のある時に暫定解だったはずのものが、気づけば絶対解のような顔をして自分の中に陣取っている…なんてこともザラである。

だから、絶えず自己を否定してリニューアルする営みがいよいよ面白くなってくる。

子供時代を過ぎたらもう成長しない、のではない。

大人の成長は、過去の自分を壊す、「アンラーニング」があって初めて成り立つのだ。

筋トレは筋肉を壊すことで成長させる。

ならば精神は自分の価値観や固定観念をどんどん壊すことで深みを増していくのではないだろうか。

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