孤独の意味を知るとき
先日言われて嬉しい言葉があった。
「松浦君の中には孤独がある。それを感じると安心するんよ。」
昨年から参加している岡山の勉強会の皆さんとのZoom
その会のリーダーに言っていただいた言葉だ。
そうか、自分の中にも孤独があったのか。言葉として受け取って、漠然と感じていた名前のつかない感情が凝縮していくのを感じた。
孤独とは、友達が少ないとかそういうことではない。
確かに多い方ではないが。
周りに人がいて、日常的に楽しく会話ができても、自分の底にある確信めいた感情を、改めて共有できないことこそが真の意味で孤独なのだと、思う。
日常的にある程度お金があって、次々生み出される楽しげなコンテンツを享受して、いわゆる「美味しいもの」を食べて自分をその都度満たす。
それはそれでいいものなのだけれど、一通り消化した後に去来する感覚
「人間って、こんなものなのだろうか。生きるって、この程度のことなのだろうか。」
この2年間、社会のレイヤーの多層性が浮き彫りにされてきたのを如実に感じてきた。
経済のレイヤー、思想のレイヤー、秩序のレイヤー、政治のレイヤー、権力のレイヤー
ある面では正しいことを履行すると、別の層に問題が生じる。
自分が何を大切にしたいのか、その都度問われていく。
守るべきものは国家としての秩序か、庶民の日々の暮らしなのか。
組織の一員として期待される振る舞いか、人間として正しいと信じる行動か
問われていることを問われていると思わないまま従えば大衆、考えて煩悶できれば庶民になれる。
自分はどちらだっただろうか。
後世の歴史の教科書にきっと残るであろう事態に直面し、その前後で自分がしてきた学びの成果が、さまざまな場において、話のレベルを自然と使い分けている自分を克明に自覚させる。
その上で、自然と離れる交友関係はまだいい。
問題は親である。
ひたすら突き進む子の変化に、この世で最も対応できないのは両親だったりする。
いつまで経っても自分を縋って生きるしかなかったか弱い生き物の幻影を追い続ける。
でももう立ち止まることはできない。
人間って本当は、テレビを見ながらポテチを食べてゲラゲラ笑うだけの存在ではないのだと、もう気付いてしまっている。
本を読んで知ったような顔で人に説教を垂れて、せっかく得た至高の概念を右から左に受け流すことでもない。
生きているうちに、残り何年あるかわからない自分の人生の中で、自分が感じたことに素直に、破壊と自己探求の道を突き進むことでしか、低次元に立ち止まる身内の恩に報いる方法はない。
本を読んで学ぶということは、思想の面で姥捨てをすることなのかもしれない。
進むほどに言語は通じなくなる。
知った自分と知らない他者の間に上下関係があるわけではない。
ただ、レールの分岐点が見えてしまっていて、もうすでに離れ離れの道を進みはじめている。それだけなのだ。
これを孤独と表するなら、確かに世の中にこれほどの孤独も存在しないだろう。
人生の最も長い時間を共にしてきた相手と言葉がつながらなくなる覚悟を持って、前に進むこと。
これが僕の抱える最大級の孤独である。
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