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周りの視線

ここ2,3日ぐらいとても寒い日が続きますね、最高気温5度とか。先週の週末の温かさは夢だったのか?と疑ってしまうほど寒いです。寒いのは苦手ですね、縮こまらないと何もできない。犬の散歩とかのびのび歩いて楽しみたいのに。しかしながら好きな季節はいつかと聞かれると、それでも私は冬と答えます。なぜならファッションの幅が一番広いと思っているからです。

私は見た目を大変気にします。人と会うための服装で一時間悩むことがざらにあります。最近はそれで遅刻することもあって心労が絶えません。朝起きて着替える時に外に出る予定がないのにグダグダ考えて決まりません。そんな時間が無駄ですし、飽きてきました。アインシュタインやスティーブ・ジョブズのように同じセットを3つか4つ揃えて毎日着ようかなと最近考えています。大学が始まればスーツで行こうと考えていますが、それでもユニクロのスーツは安っぽいからやめておこうか、ローテーション野郎と言われるんじゃないか、なんてことを延々と考えている自分の姿が想像できます、というか今すでにしてしまっています。

もちろん見た目を気にすることは大事です。清潔感があるかないかで第一印象が決まってしまいますし、それを維持することは人が生きていく上で必須と言っても過言ではありません。でも正直言ってファッションと縁を切りたい、うん。それでも縁を切れないのは服装が自分を表すことになるからで、周りからどう思われるかの指標の一つとなると思っているからです。周りからどう思われるかで悩むということはつまりは周りからの評価を気にしているわけで、それはすごくどうでもいいことなのは頭では理解できます。しかしながら、自分に自信の持てない私にとってそれは昔から未だに死活問題であり、気にしないなんてことは不可能に近い。

古着好きが高じて自分で古着屋を始める友達がいる一方、トップスがアロハシャツだったらなんでもいいという友達もいる。アロハシャツの友達を見ていると、一時間も悩んでいる自分がバカバカしくなってきます。これこそ自由なのではと思っています。アロハシャツの彼は機能性を重視してアロハシャツを着ているようなのですが、周りからの評価というものに執着していない彼が大変うらやましい。周りからの視線に束縛されていない。高校生の時に、周りからの視線が怖くて家から出られなかった自分からすると信じられない話ですね。

私はサスペンダーが好きで10本ほど持っていますが、未だに周りの視線が気になって好きなサスペンダーをつけられずにいます。いざ見せるとやれ農民だ、やれおぼっちゃまだとボロクソに言われ傷つきます。自己表現のためのファッションが自己評価を気にするあまりできないのはなんという皮肉でしょうか。自由に自分を表現するために付けたいのに、評価を恐れてできないのはお笑いでしかありません。自分は結局どうしたいの?と言いたくなります。むしろそこまで気にするならアロハシャツの彼を見習って生きれば?とも考えてしまいます…

周りからの評価なんて無意味ですよね、はぁ…




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